カテゴリー「人生論・幸福論」の248件の記事

2019/06/29

幸福と人生の意味の哲学③

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「結びに代えて」は、青山拓央著『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』(太田出版)に触発されている。

*快楽・欲求充足・人生の客観的な良さは人間的生において、しばしば偶然的でない仕方で同時実現するので共通の名をもつ(「幸福」という名)

快楽・欲求充足・人生の客観的な良さ 、3つのどれかだけに留まらない運動とそれによって得られる豊かさが幸福にとって重要だ。

*個人としての自己がそのつど直面する問題に全身でぶつかっていく、という人生の構造はいつだって変わらない。

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2019/06/28

幸福と人生の意味の哲学 ②

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(アイロニーというとローティを思い浮かべてしまう)

*実に、人間が為しうる生き方の提案はどれも不可避的な個別性や特殊性をまとっているため、加えてひとは世界と人生に関する絶対的な見通しを有していないため、私たちは人生の複数のタイプを比較して《かくかくの人生はしかじかの人生よりも有意味だ》と正当に言いうる地点に立つことができない。

*重要な意味の「幸福」は、世界の内部で成立したりしなかったりする諸条件で規定されうるものではない。

*《私たちがそうした仕方で見る/見ない》は個別的な出来事であり、これを超えた次元につねにすでに《すべてはあるがままにある》という境域は開けている。

*《すべてはあるがままにある》という永遠的境地に立つことはきわめて大切である。

(以下は、信仰の問題も絡んできて、率直に言って付いていきにくい。私としてはこれらの問題は「幸福」というより「存在」の問題である。存在についての驚き、感謝、そして美などの問題である。)

*自分を「超えた」何かを信じて生きることが、すなわち超越へのある種の「信仰」をもって生きることが重要だ。

*真の信仰は疑いすらもその一部としている。

*《一切があるがままにある》という境地において人生はまさにあるがままの意味をもつのだ、ということ。簡潔に言えば、人生はあるがままの姿で美しい、ということ。美において幸福と意味が交錯する。

 

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2019/06/27

幸福と人生の意味の哲学 ①

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山口尚さん執筆の本である。副題は「なぜ私たちは生きていかねばならないのか」である。(トランスビュー発行)

教えられることはいくつかあった。

*ストア派の幸福論は幸福を個人の内面に押し込めることによってその実質を貧しくしてしまっている。

*人間がもつ〈一歩退く〉という知的能力

*物質と〈ただあるに過ぎないこと〉~世界は絶対的に無意味か

*意味は相当に主観的だが、それでも意味は完全には主観的だとは言えず、人間は物事の意味をいつでも恣意的に変更できるわけではない。

*あなたは世界を「何でもないもの」と呼ぶが、このように呼ぶことによって世界に〈何でもないもの〉という意味を与えている。

*人生の絶対的な無意味さを主張することによって、《そう主張しない人生よりも、そう主張する人生の方が有意味だ》という価値観にコミットしてしまっている。

*私たちはそれほど自由自在に改訂可能でない意味空間のうちに「投げ込まれて」いる。(被投性)

*《私たちがそのつど特定の価値観へコミットせざるをえないこと》と《私たちがどのような特定の価値観からも距離をとれること》の間の衝突は一種の馬鹿ばかしい状態を生み出している。 「真剣であることの避けがたさ」と「疑うことの逃れ難さ」  不条理

*アイロニーを伴った生き方~自分にとって「絶対的」と感じられる価値観の「相対性」を認めて生きること。

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2018/08/14

幸福とは何か ⑦

915 著者長谷川宏さん(写真)の最後のまとめ「終章 幸福論の現在」は、さすがだと思う。

*20世紀において幸福を主題としたメーテルリンクとアランとラッセルは、幸福は身近なところにあり、身近な世界で実現可能であり、そのための努力が人間的な価値を持ち、人間世界をゆたかにすることを粘り強く主張した。
*思考と論理をひたむきに前へと進めることと、人びとが身近に感じる日々の幸福を尊重することは矛盾なく両立するものではないから、論者はその都度おのれの立つ位置の点検をせまられる。アランがあくびや眠りや微笑に生きる力の自然な発露を見、ラッセルが常識を価値あるものと認め、大地のゆたかさを強調するのも幸福論ならではのことで、そこには思考と論理の独り歩きに歯どめをかけようとする配慮が働いている。
*努力と忍耐のそのむこうに幸福が遠望されているとしても、努力と忍耐が度を越せば、望まれる幸福もゆるやかな平穏さにそぐわぬ熱を帯びてしまう。熱を帯びた幸福や幸福への願いは、幸福の本性にそぐわない。
*抵抗なくして幸福の成立も持続も望めない。……が、しかし、抵抗そのものが穏やかでなければならない。
*大きな問題を論じるときと身近な幸福を論じるときとでは、論のリズムとテンポと声量が異なってくるのは、どちらの論にとってもむしろ歓迎すべきことだ。政治・経済・文化の領域では、問題が大きくなればなるほど視野を広く取る必要が感じられはする。とはいえ、広い視野が問題解決に資するとは限らず、それとは別に、日々のしあわせといった小さな視点の設定が必要だと感じられることが少なくない。
*大状況から説き起こして日々のしあわせな暮らしに説き及ぶ論には、つねに疑問符を胸に立ち向かうしかない。大状況と無縁には生きられないのがわたしたちの生きる現実だが、と同時に、大状況が容易に個人の幸福とつながらないのもわたしたちの現実だ。身のまわりの幸福は、自分の身を置く足場から考え、作り上げていくしかない。いま幸福は、大状況の色に染まらない、自分独自の幸福としてしかない。その意味で幸福論の守備範囲を設定することは世界を見る目を磨くことに通じ、思考の形として価値のあることだといえよう。幸福論は、対象となる幸福に似て、晴れがましさや華やかさとは縁遠い、地味で、ゆったりとした穏やかなものでなければならない。

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2018/08/13

幸福とは何か ⑥

914 ラッセル(写真)の幸福論は、現代人に対して、今なお説得力のあるものになっている。
〈ラッセル〉
*「わたしの目的は、文明国の大多数の人が苦しんでいる、日々の、ありふれた不幸(神経の疲れ)にたいする一つの治療法を提示することである。」(ラッセル)
*人びとの生きる現実の世界は大多数の人にとって幸福が可能であるような世界である。
*「幸福の秘訣はこう定式化できる。あなたの興味をできるだけ広範囲なものとすること、そして、あなたの興味をそそるものごとや人物にたいするあなたの反応を、敵対的なものではなく、できるだけ友好的なものとすること。」(ラッセル)

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2018/08/12

幸福とは何か ⑤

913 私の好きなアラン(写真)の幸福論である。
〈アラン〉
*難破船上の乗客・乗員も自分の小屋を作る石工も、目の前にある出来事や対象とじかに向き合い、過剰な観念や感情を介在させることなく、次の行動へ、その次の行動へと進んでいくことが求められ、心身が求めに応じようとすることによって、そこに心身に具わる生命力がおのずと発動し流露するといった具合である。
*アランは、独自の存在としての個人が孤立していては幸福も喜びもゆたかに生育することは望めず、単位としての個人が自然に、自由に、交流する場でこそ人間的な幸福や喜びが育まれると考える個人主義者だった。
*自然との関係においては体を動かし道具を使って仕事をすることが幸福の原形であり、他人との関係においてはたがいに相手にたいして友情ないし愛情を感じられることが幸福の原形だった。

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2018/08/11

幸福とは何か ④

916 ベンサム(肖像画)の功利主義の考え方は、現代にも通ずる分かりやすさがあり、それゆえに力強さもある。
〈ベンサム〉
*経済活動の発展によって苦痛と快楽が社会的富という実質を与えられた。
*功利性の意味の核をなすのは「なにかがなにかの(あるいは、だれかの)役に立つ」ということで、ベンサムもものごとが社会に役立つかどうかという視点を堅持しつつ考察を進めようとしている。
*「なにをもって幸福がなりたつかといえば、快楽を享受することと苦痛を感じないでいられることがそれだ。」(ベンサム)
*快楽・善・幸福の三位一体

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2018/08/10

幸福とは何か ③

912 この本でカント(肖像画)への理解が少し進んだのはうれしかった。
〈カント〉
*実践ないし行動は現実とかかわり、現実を動かそうとするものだが、実践ないし行動の是非善悪を左右する道徳法則は、行動の場ではなく、行動する人間理性の内奥に所在するとカントは考える。
*理性がおのれの内部から道徳法則を紡ぎ出すところにカントは理性の自由と自律の証しを見る。
*「純粋な理性は独立にそれだけで実践的であり、われわれが道徳法則と名づける普遍的な法則を〔人間に〕あたえる。」(カント)
*人間の内面に人間を内から突き動かす力を見出す。それが意志だ。
*理論理性が先天的な分類項たるカテゴリーをもっていたように、実践理性も道徳法則をもっていて、それをこまかく定義していくと、義務と権利、許可と不許可といった概念ができあがる。(ヘーゲル)
*カントは現実の社会に背を向けるようにして人間の内面へと入りこみ、現実と因果の糸で結ばれることのない意志のうちに自由を位置づけ、道徳法則を位置づける。
*カントは、幸福の希求や、好ましい対象、心地よい境遇の欲求が、意志の核心をなす自由と道徳法則に結びつく、根源的な希求であり欲求であるとは考えない。
*幸福を望み、求めること~いいかえれば、自分の境遇に満足する状態が持続するのを確信した上で、その状態を望み、求めること~、それは人間の本性からして避けられないことだが、だからといってしかし、それを、義務でもあり目的でもあるようなものだ、ということはできない。(カント)
*カントの道徳理論のうちには幸福論の居場所はなかった。

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2018/08/09

幸福とは何か ②

911 中世は飛ばして、近代の幸福論へと入っていく。
〈ヒューム〉
*心に生じる知覚のすべてが「印象」と「観念」に区別される。印象はさらに、根本印象(感覚の印象)と二次的印象(反省の印象)とに区別される。
*幸や不幸は偶然のなりゆきのままに生じたり生じなかったりするものではなく、そこに人間の意志や意欲が働いている。その意志や意欲の働きをヒュームは偶然的なものと考える傾きが強い。

〈アダム・スミス〉(肖像画の人)
*社会的存在である人間の、感情面での土台となるのが共感であり、行動面(経済面)での土台となるのが取引と交換である。
*感情が共感という形で他人とつながると、つながっていることが感情に安定感をもたらす。
*技術の改良も、効率の向上も、生産量の増加も、活動の持続性と統一性を前提として初めて可能となった。

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2018/08/08

幸福とは何か ①

910 長谷川宏著、中公新書である。
 長谷川さんの文章は落ち着いていて、格調があるので、じっくりと読める。

*しあわせの基本形は、静けさ、平穏さ、身近さ、さりげなさにある。

*エピクロス派やストア派にあっては、国家のために生きること、あるいは共同体社会の一員であることは、もはや無条件の正義でも善でもなく、国家や共同体とは場を異にするおのれの一個の生活にも独自の価値が認められ、そこでは国家や共同体のそれとは類を異にする正義や善がなりたつと考えられるに至った。
*古代ギリシャ・ローマの脱俗は現実の政治活動や経済活動から身を退きつつ、なおこの世を生きる自己の内面へと~内面の理性へと~向かう傾向を強くもつということができる。

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