カテゴリー「人生論・幸福論」の235件の記事

2017/03/24

幸福の哲学 ③

Imagesek97wpvm アドラー(写真)と古代ギリシア哲学を基盤にした幸福論は、それなりに学ぶところがあった。
 最終章の第6章「人生をどう生きるか」から一文。
*年齢を重ねることに意識を向けず、余命にとらわれず、今しなければならないこと、できることだけを考えて生きれば、人生のあり方を大きく変えることができる。

 幸せは、「今」の時点だけをとらえても、「充足」と「向上」の2つの要素が存在していると思う。過去から今までに対して、満足と感謝の気持ちを持つとともに、今から未来へ向けて、何かしらの点でよくなるといった感覚である。この両者が両立していることは何ら矛盾していない。

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2017/03/23

幸福の哲学 ②

768 岸見一郎さん(写真)のこの本の肝は、第5章の「幸福への道」であろう。
*フロムの言葉:愛の本質は、「何かのために働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働とは分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。
*誰も嫌われたくはないが、もしもまわりに自分を嫌う人がいるとすれば、嫌われることは自分が自由に生きていることの証であり、自由に生きるために支払わなければならない代償であると考えなければならない。
*誰もが優れようとするという意味での優越性の追求も、他者と競争しないのであれば、問題なく健全なものとなる。
*それまでの人生で長く何かをやり続けてきた人であれば、ある領域では自分が優れていると思っていたのに、新しいことに着手すれば、たちまち何もできない自分と向き合わなければならなくなる。
*何かを習得することに限らず、自分が不完全であることを受け入れることができる人は、自分の価値を理想からの減点法ではなく、現実からの加点法で見ることができる。
*他者が生きていることが喜びと感じられるのであれば、自分についても生きていることがそのままで他の人にとって喜びであり、貢献していると思っていい。
*信頼するとは、目下起こっていることや、これから起きることについて未知なことがある時、その知られていないことを主観で補うことである。
*信頼することには二つの面がある。①他者の言動にはよい意図があると信じること。②相手が自らの課題を自分の力で解決できると信じること。
*他者が自分をありのまま受け入れてくれる仲間だと思えば、そんな仲間に役に立とうと思え、貢献感を持つことができる。そして、貢献感が持て、自分に価値があると思えたら、対人関係に入っていく勇気を持て、対人関係の中に入ることができれば、幸福を感じることができる。

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2017/03/22

幸福の哲学 ①

767 『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎さんの本である。副題は「アドラー×古代ギリシアの智恵」、帯には「「本当の幸福」とは何か」と書いてある。(講談社現代新書)
 『嫌われる勇気』のようなインパクトはないにしても、静かに考察してくれているので、学ぶところは多い。印象に残ったところを抜き書きしておく。
*たとえ幸福を定義することができ、その定義の意味を理解することができたとしても、そのことでただちに幸福になれるわけではない。地図で目指す場所を把握することができたとしても、実際には足はまだ一歩も前に進んではいないのだ。
*三木清は、成功は「過程」に関わるが、それに対して、幸福には、本来、進歩というものはなく、幸福は「存在」に関わるといっている。何も達成していなくても、何も所有していなくても、成功していなくても、人は幸福になることができるのだ。
*幸福は偶然にも左右されない。外的なことや偶然的なことに依存するのは幸運である。
*特別でなくても幸福であればいいではないか。
*私は自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる。
*理解できない他者、コントロールできない他者がいることを知ることが、自己中心性から脱却するためには必要である。

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2017/03/16

幸せになる勇気(再読)

9 再読して、印象に残ったところがいくつかあるので、抜き書きしておく。
*これはあなたに向けられた行動なのですから、まずはあなたが受け止めなければなりません。
*まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。
*われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。
*すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。……いま、ここを真剣に生きる。

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2017/01/20

置かれた場所で咲きなさい(再読)

Yjimage ノートルダム清心学園理事長だった渡辺和子さん(写真)が昨年の12月30日、89歳で亡くなった。
 渡辺さんが当時9歳だった時、2.26事件でお父様を目の前で亡くされた。その後、素晴らしいお母さまに育てられた。これだけでもものすごいことであり、涙が出る。
 ご冥福をお祈りしたい。
 今回、この本を再読して、病気や老いのところの記述が特に気になった。それだけ私が年取ってきたということだろう。印象に残ったところを抜き出しておきたい。
*かくて病気という人生の穴は、それまで見ることができなかった多くのものを、見せてくれました。それは、その時まで気付かなかった他人の優しさであり、自分の傲慢さでした。私は、この病によって、以前より優しくなりました。
*感謝の念と謙虚さが、もしかすると「輝き」となっているのかもしれません。
*私から歳を奪わないでください。なぜなら、歳は私の財産なのですから。
*一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものだ。
*老いるということにおいて、一番大切な仕事は、ふがいなくなった自分を受け入れて、いつくしむということ。
*持ち時間も体力も、気力さえも確実に減ったとすれば、いきおい何もかもでなく、本当に大切なこと、必要なことを選んでするようになります。かくて、老いは人間をより個性的にするチャンスなのです。
*「小さいな死」とは、自分のわがままを抑えて、他人の喜びとなる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらず笑顔で行うこと、仕返しや口答えを我慢することなど、自己中心的な自分との絶え間ない戦いにおいて実現できるものなのです。

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2016/11/02

幸福はなぜ哲学の問題になるのか ⑥

718 最終章(第7章)は、「幸福はなぜ哲学の問題になるのか」である。青山拓央さん(写真)が最も書きたかったところかもしれない。
*本書の問題意識は、この現実の世界~とりわけ現実の「今」~を他の諸可能性と対比するとはどういうことか、というものである。
*単純かつきわめて重要なのは、現にこの世界にいるわれわれにとって現に在るのはこの世界だけでありながら、にもかかわらず、他の諸可能性への思考がわれわれの生の根底から支えているように見えることである。
*反事実的な諸可能性や未来の諸可能性がもしなかったら……。あるいは在ってもそれらを「選ぶ」主体が存在しなかったら……。これらが在るということが「錯覚」かもしれない。
*この錯覚のなかに幸福と不幸が在り、その錯覚は人間にとっての「現実」だと言える。
*客観的幸福は「主体外在性」だけでなく、「時間外在性」や「世界外在性」をもつ。そして、私を教育するものとしての他者は、集団の利益だけでなく、この今を超えた時間(もっぱら未来)と、この現実を超えた諸可能性に訴えることで、私の主観的幸福のあり方を律する。
*主観的幸福と客観的幸福をただ二分することはできず、その主観性の内には客観性があり、客観性の内には主観性がある。

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2016/11/01

幸福はなぜ哲学の問題になるのか ⑤

721 第6章からは「なぜ幸福であるべきか」を問うていく。
*「幸福とは何か」についての諸説は、「なぜ~ある意味での幸福について~幸福であるべきか」を同時に論じている。
*幸福について、「快楽説」「欲求充足説」「客観的リスト説」の一つだけに誓いを立てて生きるのは、不自然で無理のある生き方と言えるだろう。たくさんの「軽い」選択においてそれらを日替わりで選ぶからこそ、人生には多様な幸福が生じ、多様な未来の可能性も開かれる。
*「幸福である」多くの事例を示すことは、「幸福」の立派な説明であり、上記の3説に関しても、そのすべてに共通する「幸福」の本質を見つける必要はないかもしれない。
*上記3要素が有意味な集合としてまとまっている理由を、3要素のうちの複数がしばしば同時に実現する点に求め、この同時実現をたんなる偶然の同時実現と区別して、「共振」と呼びたい。
*3説のどれを支持する人でも、快楽、欲求充足、客観的な人生のよさのすべてが一度に得られた場合に、どれかを放棄することはしないだろう。それらを同時に得ること(共振)はけっして珍しくないのであり、それが可能である以上、私たちはそれを頻繁に狙う。
*幸福とは立体構造における多数の「共振」の集合である。快楽だけでも欲求充足だけでも、そして客観的な人生のよさだけでも、幸福を得ることはできない。ある一つの行為選択が、立体構造における複数の問いに同時に答えること。つまり、「何」の問いから、「なぜ」の問いまでが、共振のもとで一挙に答えられること。

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2016/10/31

幸福はなぜ哲学の問題になるのか ④

719 第3章からは、「いかにして幸福になるか」がテーマである。
*順応しやすい生活の要素は幸福度に直結しにくい。そうした要素としては、例えば、収入、性別、人種、学歴、居住地の気候、家の立派さ、知能指数、外見の良さなどが、調査の結果、報告されている。
*順応しづらい要因としては、騒音、通勤時間の長さ(苦痛)などの調査報告がある。
*遺伝的要因としては、例えば抑鬱傾向などが、双生児の研究を通して確かめられている。
*他者との良好なつながり(良好な結婚関係を含む)も、主観的幸福度を高めるうえで重要な要因であることが分かっている。

*人生を作品として見るとして、それを時間的な物語性をもった作品(例えば映画)と見るべき必然性はあるか。人生を画廊のようなものとして見て、人生の個々の場面を、画廊のまったく別々の画のように鑑賞することもできるのではないか。

*後悔ばかりする人は、自分が選ばなかったものが遠くにあることに気づいていない。そちらは遠くにあるために、細かい欠点が見えない。

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2016/10/30

幸福はなぜ哲学の問題になるのか ③

Images140 「幸福とは何か」を第2章でさらに展開する。
*幸福論においても、「実在論」と「観念論」の立場がある。
*幸せだから幸せだと知るのではなく、幸せだと知ることによって幸せになる……。現実の背後に他の可能性を見ることで、それは可能になる。
*「善悪」は実在論的な傾向があるが、これは善悪が規範的な概念(「すべき/すべきでない」の判断に関わる概念)であることに由来している。……善悪よりも規範性の弱いその他の価値判断(幸福など)については、観念論に留まることが容易である。
*幸福論が反発を招く一つの理由は、幸福と人生が直結しており、特定の幸福論を述べることが特定の生き方を規範化するからだろう。つまり、語り手にその自覚がなくとも、特定の幸福観を称揚することが他の幸福観を否定するものとして受け止めらるからである。

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2016/10/29

幸福はなぜ哲学の問題になるのか ②

717 著者の青山拓央さん(写真)は、「幸福とは何か」について、第1章から語り始める。
*幸福は「自由」との関連が深い。
*エウダイモニア(「幸福」としばしば訳されるギリシア語)は、「よく生きていること」「うまくやっている」と同様だとアリストテレスは言っている。(エウダイモニアは「繁栄」とも訳される。)
*さまざまな「よさ」を求める過程の究極目的がエウダイモニアである。…他の目的ではなく、それ自体のためになされることがらである。
*キーネーシスはよく「運動」と訳さるが、「過程」と訳されることもある。「作業」という訳もある。作業はつねに目標をもっており、目標が達せられたなら、その作業を続けることはできない。
*エネルゲイア(活動)は、それ自体のうちに目的をもち、完了性と完全性をもつ。
*だから、徳を発揮しうる活動(エネルゲイア)に満ちた人生は、それ自体において輝かしさをもつエウダイモンな人生である。
*人生や人類史の全体をその外側から価値づけるのではなく、その内側からのみ価値づけるなら、内側にある個々の目的は意味を取り戻すかもしれない。
*そのようにして内側の視点に留まったとしても、私たちはどこかで、未来に他の目的をもつものではない「活動」を求めるだろう。それ自体としての充実と喜びをもった、自分の徳が十全に発揮された「活動」を。
*各々の時代の人びとが各々の場面で、それ自体としての充実と喜びをもった「活動」をなしてきたならば、それらはまさにそれ自体としての、無時間的な~時間の流れとは独立の~価値を持っている。
*私たちのなかには、ほぼ間違いなく、人類最後の人間はいない。しかし、私たちはだれもが確実に、人生最後の人間になる。自分自身の人生に関して。

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