カテゴリー「マランの幸福論」の144件の記事

2015/09/06

マランの幸福論 雑記 125

007 「人のせいにしないこと」についてである。
 私には、現在までも恨みを持ち続けている人はいない。あの人がいなければ、私の人生はもっとよくなったのにと思う人もいない。逆に、負い目を感じている人もいない。
 これは幸せなことである。以前は、このような人たちがそれなりにいたような気がするが、忘れてしまって、今はあまり感じない。残された時間が少ないから、過去のことを悔やんでいる時間がもったいないということもある。未来志向なのだ。
 私にも人生の転換点はいくつかあった。大学時代に理系から文系に専門を変更したとき、職場での地位の向上を完全にあきらめたとき等々である。
 これらは自分のせいである。これらによって自分の好きなことができるようになった。これはよかった。今の幸せに繋がっている。

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2015/09/05

マランの幸福論 雑記 124

009 「自分の幸福論」についてである。
 世の中には立派な人たちがたくさんいて、たくさんの立派な幸福論を話したり、書いたりしている。
 それらはとても参考にはなるが、それだけでは自分の幸福は実現しない。自分に合う幸福論を、自分の力で自分なりに作らなくてはならない。
 それは他人から見て、立派なものである必要はない。まとまっていなくても、短いものでもいい。自分が納得するものであればそれでいい。
 私の場合でいえば、この「マランの幸福論」である。誰か偉い人の考えを寄せ集めたものではない。私がその時点で、腹にストンと落ちたものを拙い文章で綴ったものである。
 自分なりの幸福論を考えていく中で、幸福へ向けて自分がやりたいことを強く意識していく。それらを実行していくと次から次へと課題が生じてくる。その課題を解決していくことそのものが楽しさや新たな幸福に繋がっていく。

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2015/09/04

マランの幸福論 雑記 123

005  「心・社会・体の健康」についてである。
 WHO(世界保健機関)によると、健康とは、心の面、社会関係(人との関係)の面、体の面、これら3つの面における健康を指すとされている。
 確かにこれら3つの側面がそれぞれある程度健康であること(完璧な健康でなくてもいい)は、多くの人が望んでいることである。そして、これらが健康であるということは、幸福とほぼ同じことのように私は思っている。
 健康の3つの側面すべてに対していつも気になるが、若い頃は、特に心の健康が気になる。成人して、仕事や結婚をすると、人との関係が大事になり、社会関係の面での健康が気になる。そして、高齢期になると、特に体の健康が気になるものである。
 中高年になると、心は高揚していても、体の方がついていかないことがしばしばある。当たり前のことではあるが、信条・信念など、すなわち心構えだけでは体の健康は保てない。
 だから、この年になってくると、心と体が別のようにも感じてくる。心身一元論でないと理屈は通らない気もするが、心情的には心身二元論も捨てがたいのである。
 いずれにせよ、健康≒幸福を大切にしていきたいものである。

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2015/09/03

マランの幸福論 雑記 122

003 「人の気持ちを思いやること」についてである。
 このことから、すぐに言いたいのは、人に対して「皮肉やイヤミ」を言わないということである。
 若い頃は、上から目線で、人に対してよく皮肉やイヤミを言っていたものである。これは自分が人より上に立ちたいという気持ちの現れである。
 今はというと、人と対等という気持ちが大きい。人をけなさない。もうあまりヒネッた言い方は必要ない。素直に、そのままに、場合によってはベタすぎるくらいな感じで物を言う。これは分かりやすい言い方だから、人にも伝わりやすい。
 時には、人を持ち上げ、自分を下げてみる。ここに明るいユーモアや笑いが生じる。そうしても卑下した感情は起こらない。
 ところで、世の中には、人の欠点をたくさんあげつらってくる人たちがいる。競争意識が強く、他人を自分の下に見たい人たちである。そのような人たちに私は特には反論しない。(学ぶことも多いからである。) 極端に強い攻撃がある場合は、その人と適当な距離を置く工夫はするが…。

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2015/09/02

マランの幸福論 雑記 121

002 「しみじみとわくわく」についてである。
 過去にたくさん経験したことをゆっくりと思い出す。小さな出来事をじっくりと思い返すことによって、じわじわと感謝の気持ちがわいてくる。しみじみと幸せな感じを味わう時である。
 現在はというと、細々とした雑事に追われている。しかし、それら一つ一つをあえて時間をかけてゆっくりと丁寧に味わってみる。そうすることによって、これらにもしみじみとした幸せを覚える。
 老いて、死に向かっているときは、このしみじみとした感覚が最も幸せに近いように思う。気持ちが落ち込んだ時も、このしみじみとした感覚を思い出すと、落ち着いた幸せを感じる。
 一方、未来へ向けては、どんな年になっても、わくわくとときめいた感じを持っていたいと思う。法螺っぽい、夢のような、大げさなものでもいい。(もちろん、小さなものでもいい。)
 本当に自分がやりたいもの、わくわく胸が高まるものを目指したい。他の人からどう思われるかよりも、自分がときめくものこそ大事にしたい。それらに乗って、これからを生きていこうと思う。

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2015/07/14

マランの幸福論のホームページ

Image2 「マランの幸福論」のホームページを作りました!
 名称が「ホンマの幸福論」で、「ホンマの幸福論」で検索できるし、右の「お薦めのリンク」をクリックしてもらってもいい。
 リード文は、「多くの人が幸福を望んでいます。私もそうです。あなたはいかがですか。幸福について一緒に考えてみましょう!」である。
 「ホンマの幸福論」の名称の由来は、「人生は3つの要素から成り立っています。「空間」と、「時間」と、「仲間(人間)」です。この3つが本当にリアルに充実している状態を、「本間(ホンマ)」と呼びます。(ホンマでっか!?(笑))」である。
 注意点として、「ホームページの「本論・追補・雑記」のところはボリュームがありますので、ダウンロードして適宜お読みください。」としている。

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2015/07/13

マランの幸福論 雑記 120

006 「仲間の関係」についてである。
 自分の周囲の人たちを基本的に「仲間」と見ていて、対等の関係、横の関係を作れる人は幸せを築くことができる。
 逆に、周囲の人たちのほとんどが自分の敵であると認識していたら、その人は常に不安であり、とても幸福にはなれないだろう。
 地位、金などは成功についての分かりやすい指標だが、これらは縦の関係になりやすい。幸福は、肩書や金銭ではない対等の関係の方が育ちやすい。目には見えにくいものだが、一人の人間としての対等の横の関係が大切である。
 上から目線の関係だと、相手をけなしたり、時には相手をほめたりする。(ほめるのが必ずしもいいとは限らない。)
 対等の関係なら、素直に、「ありがとう」とか、「うれしい」とかいう言葉を相手に言うことができる。感謝とか、喜びを率直に表現できるのである。
 これは幸せな関係である。まずは人の話をよく聞く。自分の幸せとともに、人の幸せを願う思いやりがある。これらが未来志向でできれば、何とかなるものである。

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2015/07/12

マランの幸福論 雑記 119

003 「私と他人」についてである。
 私の人生は、私しか生きることができない。私の人生を楽しむことも、苦しむこともできるのは、私である。
 だから、他人からどう見られるかを過剰に気にするより、自分がやりたいことを素直にやっていく方がいい。
 しかしながら、他人の悩みや課題に巻き込まれて、自分の方が不安定になり、落ち込むことがある。今日のネット社会の中では、人とのつながりをうまくコントロールできなくて、にっちもさっちもいかなくなることがある。人との甘えの関係を断ち切ることは、結構難しいものである。
 この場合、「課題の分離」という心理学者アドラーの考え方は有効である。自分の課題と他人の課題を分けていく。そして、自分は、基本的には自分の課題にしか対応できないということをしっかりと認識することである。
 このようにまずは自分を立脚させることを前提にして、それから他人のためにできるだけのことをしていきたい。周囲の人に貢献できる自分のパイをできるだけ拡大していくことはいいことである。

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2015/07/11

マランの幸福論 雑記 118

004 「健康と幸福」についてである。
 健康と幸福はかなり近いものであろう。
 体の健康も、心の健康も、ともに重要であるが、幸福はどちらかというと心の健康の方で語られることが多い。
 心の健康ということでいえば、まずは現在の自分に満足している心のことである。また、過去と未来も視野に入れて、自分の一生に対して感謝と希望の心を持っていることである。これらは自分と他者との関係においても、そのように感じられる心のことである。これらは幸福といっていい。
 健康の反対は病気である。
 だが、病気だからといって、不幸とは限らない。それに完全無欠の健康などはあり得ない。体においても、心においても、一病息災、数病息災といったところが現実である。そのような現実の中にこそ、幸福が潜んでいるというのが幸福の微妙かつ面白いところである。

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2015/07/10

マランの幸福論 雑記 117

002 「動くことと関係すること」についてである。
 人は自らが動いていなかったり、他者との関係をつけていなかったりすると、あまり幸せを感じないものである。
 すでに高い地位に就いていたり、優れた業績を上げていたり、お金持ちになっていたりとしても、そこから変化なく留まっているのでは物足りないものである。
 逆に、低い地位でも、これまで実績がなくても、あるいは貧しくても、これから変化していくこと、さらに少しでも良くなっていくという感覚があれば、人を幸せにする。また、他者との関係が少しでも豊かになっていくという実感も幸福に繋がる。
 お金を例にとれば、まずは、お金は一定程度あることが必要である。しかし、たくさんある必要はない。たくさんお金があるから幸せになるのではない。お金が少ないから不幸せになるのでもない。他人との量的な比較はあまり意味がない。現在も、そしてこれからも自らがよりよく貯めて、よりよく使っていけることを感じればいい。
 「いま、ここ、わたし」から、動き、関係することによって、幸福の広がりを作っていけばいい。時間と空間と仲間の、3つの「間」の広がりと深まりが重要である。それが幸せを実現してくれる。
 だから、どんな境遇でも(低いと思われる環境でも)幸せを作っていくことができる。

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