カテゴリー「哲学・思想」の547件の記事

2018/04/12

福岡伸一、西田哲学を読む

873 副題が「生命をめぐる思索の旅」である。(池田善昭・福岡伸一著、明石書店)
 動的平衡(福岡伸一のキーワード)と絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎のキーワード)が似ているということ。
 本書のテーマは、ロゴス〈論理〉対ピュシス〈自然〉である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/25

哲学の最新キーワードを読む④

871 新しい公共哲学を目指すということがこの本の意図である。

11 ポスト資本主義社会は共有がもたらす~シェアリング・エコノミー
*クラウドベース資本主義である。(一般大衆、クラウドが中心)
*テクノロジーのおかげで、世界規模で新たなコモンズが生じようとしている。…個人を主体としている。
*シェアをインフラのようにとらえ、自分の都合に応じて利用するという気軽さだ。

12 自分と他者を同時に幸福にする~効果的な利他主義
*ピーター・シンガー(写真)の提唱する効果的な利他主義も、功利主義の発想に基づいている。

〔おわりに〕 未来のための新しい公共哲学
*〈多項知〉は「私」とつながっている。かといって、「私」に回収してしまえるほど存在意義の小さいなものではない。だから、「私」が〈多項知〉を駆使して社会を変えるというのが一番正確だといってよい。
*「私」が〈多項知〉という複数の項からなるネットワーク状の知をつなぎ合わせる役割、「ハブ」を担うことが重要である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/24

哲学の最新キーワードを読む③

870 このプラグマティズムのところは面白い。
第Ⅳ部 共同性の知
10 積極的な妥協が対立を越える~ニュー・プラグマティズム
*プラグマティズムとは、行為によって実用的な結果を得る思想である。
*ネオ・プラグマティズムの旗手であったリチャード・ローティは、強制によらない合意を「連帯」と言う。連帯こそが、伝統的な哲学が求めてきた普遍的妥当性に変わるものである。
*ニュー・プラグマティズムのジョン・マクダウェル(写真)は、プラグマティズムの立場から客観性を肯定しようとする。(ローティは「客観性恐怖症」?)
*客観性の問題は、心が何かを知る行為である「経験」なるものが、はたして絶対的といえるのかどうかの問題である。
*マクダウェルは、経験そのもののうちに、すでに「概念」が働いていると考える。(概念主義)
*自然にはすでに意味が含まれており、人間が唱える価値は客観的にも実在する。(アリストテレスの「第二の自然」)

*従来の民主主義はルソーの一般意志というフィクションに基づいて民主主義を構想していた。しかし、人民の意志はあらかじめ確定しているわけではなく、むしろ後から明確になることの方が多い。そもそもプラグマティズムとはそうした人間理解に立って唱えられたものである。…プラグマティズム型民主主義とは、不確定な状況の中でとりあえずの答えを出していくことだといえる。…行き当たりばったりの側面がある?

*主導権を握るのは、あくまで素人知であるべきである。…強硬な専門知に取り込まれることなく、強靭な素人知を育んでいかなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/23

哲学の最新キーワードを読む②

869 小川仁志さん(写真)の本は新しいとか深いというのではないが、整理の方法と提示の仕方がうまいので、分かりやすく、参考になる。
 
第Ⅱ部 モノの知
4 すべては偶然に生じている~思弁的実在論
*偶然性の必然性~偶然の出来事は、必ず起こる。

5 独立するモノたち~OOO(トリプルオー)
*オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology)
*モノが徹底的にバラバラである。

6 非 ー 人間中心主義の行方~新しい唯物論
*マルクスはあくまで人間の労働こそが価値を生み出すとしたが、そうではなくて蒸気機関や石炭、産業組織そのものが価値を生み出す。
*社会的実体は存在し、心はそれを把握するという形。社会は人間のあずかり知らないところで勝手に構成されていく。

◎モノは確実に社会のアクターとして躍り出ようとしている。……その中で、人間の役割の問い直しが求められている。

第Ⅲ部 テクノロジーの知
7 AIの暴走を止められるか~ポスト・シンギュラリティ

8 インターネットが世界を牛耳る~フィルターバブル
*私たちインターネットユーザーは、ネットだからといって相手への配慮を手薄にしてはいけない。そして、リアルな世界と同じように、自分の言葉に責任を持たなければならない。

9 プライバシーなき時代を生きる~超監視社会

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/22

哲学の最新キーワードを読む①

868 小川仁志著、講談社現代新書である。副題が「「私」と社会をつなぐ知」ということで、新しい公共哲学を模索する本でもある。

〔はじめに〕 「私」をアップグレードするために
*絶対知から〈多項知〉へ
*新たに生起する様々な非理性と、従来の理性との関係を定義し直すことで、理性そのものをアップグレードすること~それこそが〈多項知〉の時代に求められる新たな公共哲学なのである。
*「感情」を豊かにし、「モノ」を主体にした新しい思想を理解し、「テクノロジー」のもたらす未来を正確に把握し、「共同性」の広がりを視野に入れる。

第Ⅰ部 感情の知
1 政治は感情に支配されるのか?~ポピュリズム
*ポピュリストは、反エリート主義者であることに加えて、つねに反多元主義者である。
*ポピュリズムに対抗できるのは、いわば「スローイズム」とも呼ぶべき新しい公共哲学にほかならない。

2 地球規模の宗教対立が再燃する~再魔術化

3 アートこそが時代を救う~アート・パワー
*アートそのものが政治のアクターであり、アリーナになりうる。

◎新しい公共哲学は、感情や感性の持つ力を飼いならすという視点で構築される必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/20

観光客の哲学⑥

863 少しだけ私の感想を書いておく。
 とにかくこの本での東浩紀さん(写真)の論や例は刺激的で面白かった。

 この本での観光とは主に海外の旅行をイメージしていて、ダークツアーなどがその意義を強く表している感じがある。私は一般の観光(例えば、国内の物見遊山)についてはそれほど期待できないし、力にもならないと思っている。
 私はほとんど海外旅行をしないこともあって、観光客の論はそれほど魅力を感じなかった。むしろ、私にとって身近な、後半の家族の論の方が興味を引いた。
 実際上、今の日本において、観光に行かない、家族を持たない(親にならない)人が増えている中で、この本の論はどれほど影響力を持つだろうか。
 もちろん、具体的な観光や家族を論じているのではなく、抽象的で哲学的な観光や家族を論じているのは私も承知している。ただ、著者の東さんの実際の観光と家族の体験が反映されているという香りを私は随所に感じるので、言っておきたかったところである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/19

観光客の哲学⑤

864 私の好きなドストエフスキーを扱ったこの章は面白かった。
 第7章「ドストエフスキーの最後の主体」
*なぜルソーには弁証法がなく、ドストエフスキーにはあったのか。フロイトが指摘したように、ドストエフスキーの文学につねに「父殺し」の主題がつきまとっていたからか。
*リベラリズムの偽善を乗り越え、ナショナリズムの快楽の罠を逃れたあと、グローバリズムのニヒリズムから身を引きはがし、ぼくたちは最終的に、子どもたちに囲まれた不能の主体に到達するのだ。
*苦しむ子どもは、イワンとスタヴローギンの最大の弱点である。
*ぼくたちは犬のジューチカが死んだあとも、もういちどジューチカ的なるものを求めて新しい関係をつくることができるし、またそうすべきである。
*ある子どもが偶然で生まれ、偶然で死ぬ。そして、また新しい子どもが偶然で生まれ、いつのまにか必然の存在へと変わっていく。子どものイリューシャの死はそのような運動で乗り越えられる。ぼくたちは、一般にその運動を家族と呼んでいる。
*だから、子どもたちに囲まれた不能の主体は、不能ではあるけれどけっして無力ではない。世界は子どもたちが変えてくれる。人間は、人間を孤独のなかに閉じ込める「この」性の重力から身を引きはがし、運命を子どもたちに委ねることで、はじめてイワン=スタブローギンのニヒリズムを脱することができる。
*コミュニタリアニズム(ナショナリズム)もリバタリアニズム(グローバリズム)もそもそも他者の原理をもたない。いま、他者への寛容を支える哲学の原理は、もはや家族的類似性ぐらいしか残っていない。あるいは「誤配」くらいしか残っていない。
*ぼくたちは、必然にたどりつく実存になるだけでなく、偶然に曝され、つぎの世代を生みだす親にもならなければ、けっして生をまっとうすることができない。……ハイデガーの過ちは、彼が、複数の子を生みだす親の立場ではなく、ひとり死ぬ子の立場から哲学を構想したことにあった。
*子として死ぬだけではなく、親としても生きろ。
*親であるとは誤配を起こすということ。そして偶然の子どもたちに囲まれるということ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/18

観光客の哲学④

866 第2部は「家族の哲学」(序論)ということで、家族のことをテーマとして取り上げる。
 第5章「家族」
*家族とはそもそもが偶然の存在である。だから、それは偶然により拡張できるのだ。
*家族の輪郭は、生と生殖だけでなく、集住と財産だけでもなく、私的な情愛によっても決まる。
*新生児に人格はない。でもぼくたちはそれを愛する。だから子どもにも人格が生まれる。最初に人間=人格への愛があり、それがときに例外的に種の壁を越えるわけではない。最初から憐れみ=誤配が種の壁を越えてしまっているからこそ、ぼくたちは家族をつくることができるのである。

 第6章「不気味なもの」
 (ラカン(写真)らの論を援用しながら、展開している。)
*サイバースペースという言葉には独特のメッセージが含まれている。情報技術の誕生によって、ぼくたちは新しい世界=空間に生きるようになるというメッセージである。その認識論的な表現が「仮想現実への没入」で、経済的な表現が「情報産業という新しいフロンティア」だと考えられている。
*ひとはそんなに器用に「分人」にはなれない。分身が裏アカで吐いた毒は、まさに不気味なものとして本体に貼りつき、少しずつ本アカのコミュニケーションにもゆがみを与えていく。
*「宇宙」と「未来」の失墜、それは大きな物語の喪失にほかならない。……サイバースペースという概念が、大きな物語が消えた世界において、その欠落を埋め合わせる「新しい大きな物語」の役割を果たしたことがわかってくる。
*観光客の視線とは、世界を写真あるいは映画のようにではなく、コンピュータのインターフェイスのように捉える視線なのではないだろうか?
*いまやかつてのイデオロギーがあった場所はコンピュータに占められ、そしてコンピュータの秩序はかつてのイデオロギー以上にぼくたちを支配している。
*イメージとシンボルを等価に並べるコンピュータの平面、それはまた、帝国の秩序と国民国家の秩序を往還する郵便的マルチチュードの平面でもあるはずだ。サイバースペースの比喩はその可能性を覆い隠してしまうのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/17

観光客の哲学③

865 アントニオ・ネグリ(写真)らが使った「マルチチュード」という概念を活用している。
 第4章「郵便的マルチチュード」
*「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのがぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。その失敗を「誤配」と呼ぶ。
*人間社会にダイナミズムを与えているのは、他者の絶対的排除でもなければ、他者への完全な開放性でもなく、そのあいだの状態だということだ。
*富の偏りは、一部の富めるものがつくるのではなく、ネットワークの参加者ひとりひとりの選択が自然に、しかも偶然に基づいてつくりだしていく。
*「人間の条件」とその外部、政治とその外部、国民国家と帝国、規律訓練と生権力、正規分布とべき乗分布、人間がひとりひとり人間として遇されるコミュニタリアンなコミュニケーションの圏域と人間が動物の群れとしてしか計数されないリバタリアンな統計処理の圏域とが、同じひとつの社会的実体のふたつの権力論的解釈として同時に生成する。
*出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。……ぼくたいちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。これらを「観光客の原理」と名づける。
*コミュニタリアニズムは、あらゆる信念は結局は主体が所属する共同体(国民国家)の偶然性に規定されると主張する政治思想であり、他方でリバタリアニズムは、社会の基盤(メタユートピア)はあらゆる信念に関係なく設計されるべきだと訴える政治思想である。
*もし憐れみがなければ、人類はとうのむかしに滅びていただろうとルソーは記す。憐れみこそが社会をつくり、そして社会は不平等をつくる。
*ルソーもローティもおそらくは誤配の哲学者だったのだ。誤配こそがヘーゲルが見なかったものであり、そしてぼくたちがいま回復しなければならないものなのだ。観光客の哲学とは誤配の哲学なのだ。そして連帯と憐れみの哲学なのだ。ぼくたちは、誤配がなければ、そもそも社会すらつくることができない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/15

観光客の哲学②

862 東浩紀さん(写真)の発想は刺激的だ。
 第2章「政治とその外部」
*『永遠の平和のために』の第三条項の追加でカントが提示しようとしたのは、国家と法が動因となる永遠平和への道とはべつに、個人と「利己心」「商業精神」が動因となる永遠平和へのもうひとつの道があり、この両者が組み合わされなければ永遠平和の実現は不可能だという認識である。
*シュミットにおいては、政治はまず、世界を内部(友)と外部(敵)に分け、共同体(友の空間)を確立する。
*国家を離れ、民族を離れ、他者の承認も歓迎も求めず、個人の関心だけに導かれてふわふわと行動する観光客は、まさに「動物」だと言うことができる。
*観光客は大衆である。労働者であり、消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ、敵もつくらない。そこにはシュミットとコジェーヴとアーレントが「人間ではないもの」として思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼすべての性格が集まっている。観光客はまさに、20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、20世紀の思想の限界は乗り越えられる。

 第3章「二層構造」
*リベラリズムは普遍的な正義を信じた。他者への寛容を信じた。けれどもその立場は20世紀の後半に急速に影響力を失い、いまではリバタリアニズムとコミュニタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュニタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍も他者も現れない。それがぼくたちが直面している思想的な困難である。
*観光客の哲学とは、政治の外部から立ち上がる政治についての哲学、動物と欲望から立ち上がる公共性についての哲学、グローバリズムが可能にする新たな他者についての哲学を意味している。
*国民国家の時代はじきに終わり、帝国の時代が始まると考えるのではなく、両体制の共存について考える。
*『存在論的、郵便的』(東浩紀)では、ある時期のフランスの思想が全体として否定神学的な性格を強く帯びていること、そしてそのなかでひとりの哲学者(ジャック・デリダ)がその傾向に抵抗を試みていたことを論証しようとした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧