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2018/08/14

幸福とは何か ⑦

915 著者長谷川宏さん(写真)の最後のまとめ「終章 幸福論の現在」は、さすがだと思う。

*20世紀において幸福を主題としたメーテルリンクとアランとラッセルは、幸福は身近なところにあり、身近な世界で実現可能であり、そのための努力が人間的な価値を持ち、人間世界をゆたかにすることを粘り強く主張した。
*思考と論理をひたむきに前へと進めることと、人びとが身近に感じる日々の幸福を尊重することは矛盾なく両立するものではないから、論者はその都度おのれの立つ位置の点検をせまられる。アランがあくびや眠りや微笑に生きる力の自然な発露を見、ラッセルが常識を価値あるものと認め、大地のゆたかさを強調するのも幸福論ならではのことで、そこには思考と論理の独り歩きに歯どめをかけようとする配慮が働いている。
*努力と忍耐のそのむこうに幸福が遠望されているとしても、努力と忍耐が度を越せば、望まれる幸福もゆるやかな平穏さにそぐわぬ熱を帯びてしまう。熱を帯びた幸福や幸福への願いは、幸福の本性にそぐわない。
*抵抗なくして幸福の成立も持続も望めない。……が、しかし、抵抗そのものが穏やかでなければならない。
*大きな問題を論じるときと身近な幸福を論じるときとでは、論のリズムとテンポと声量が異なってくるのは、どちらの論にとってもむしろ歓迎すべきことだ。政治・経済・文化の領域では、問題が大きくなればなるほど視野を広く取る必要が感じられはする。とはいえ、広い視野が問題解決に資するとは限らず、それとは別に、日々のしあわせといった小さな視点の設定が必要だと感じられることが少なくない。
*大状況から説き起こして日々のしあわせな暮らしに説き及ぶ論には、つねに疑問符を胸に立ち向かうしかない。大状況と無縁には生きられないのがわたしたちの生きる現実だが、と同時に、大状況が容易に個人の幸福とつながらないのもわたしたちの現実だ。身のまわりの幸福は、自分の身を置く足場から考え、作り上げていくしかない。いま幸福は、大状況の色に染まらない、自分独自の幸福としてしかない。その意味で幸福論の守備範囲を設定することは世界を見る目を磨くことに通じ、思考の形として価値のあることだといえよう。幸福論は、対象となる幸福に似て、晴れがましさや華やかさとは縁遠い、地味で、ゆったりとした穏やかなものでなければならない。

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