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2018/03/19

観光客の哲学⑤

864 私の好きなドストエフスキーを扱ったこの章は面白かった。
 第7章「ドストエフスキーの最後の主体」
*なぜルソーには弁証法がなく、ドストエフスキーにはあったのか。フロイトが指摘したように、ドストエフスキーの文学につねに「父殺し」の主題がつきまとっていたからか。
*リベラリズムの偽善を乗り越え、ナショナリズムの快楽の罠を逃れたあと、グローバリズムのニヒリズムから身を引きはがし、ぼくたちは最終的に、子どもたちに囲まれた不能の主体に到達するのだ。
*苦しむ子どもは、イワンとスタヴローギンの最大の弱点である。
*ぼくたちは犬のジューチカが死んだあとも、もういちどジューチカ的なるものを求めて新しい関係をつくることができるし、またそうすべきである。
*ある子どもが偶然で生まれ、偶然で死ぬ。そして、また新しい子どもが偶然で生まれ、いつのまにか必然の存在へと変わっていく。子どものイリューシャの死はそのような運動で乗り越えられる。ぼくたちは、一般にその運動を家族と呼んでいる。
*だから、子どもたちに囲まれた不能の主体は、不能ではあるけれどけっして無力ではない。世界は子どもたちが変えてくれる。人間は、人間を孤独のなかに閉じ込める「この」性の重力から身を引きはがし、運命を子どもたちに委ねることで、はじめてイワン=スタブローギンのニヒリズムを脱することができる。
*コミュニタリアニズム(ナショナリズム)もリバタリアニズム(グローバリズム)もそもそも他者の原理をもたない。いま、他者への寛容を支える哲学の原理は、もはや家族的類似性ぐらいしか残っていない。あるいは「誤配」くらいしか残っていない。
*ぼくたちは、必然にたどりつく実存になるだけでなく、偶然に曝され、つぎの世代を生みだす親にもならなければ、けっして生をまっとうすることができない。……ハイデガーの過ちは、彼が、複数の子を生みだす親の立場ではなく、ひとり死ぬ子の立場から哲学を構想したことにあった。
*子として死ぬだけではなく、親としても生きろ。
*親であるとは誤配を起こすということ。そして偶然の子どもたちに囲まれるということ。

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