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2017/02/06

「問う」とはどういうことだろう?

Medium_2201907500   第43回人生カフェは平成29年2月4日(土)、12名(男性6名、女性6名)の参加によって実施された。
 今回は本間が進行役(ファシリテーター)だった。前半は机を使い、フリップに書いてもらうなどをし、後半は机を使わず、全員が椅子に輪になって座り対話をした。
 今回のテーマは「「問う」とはどういうことだろう?」である。
 まずは、参加者からサブテーマに当たるような自分の問いを出してもらった。
 「「問う」ことは、まさに「考える」こと?」
 「答えのないものに対しては、「問う」という形で、まず始めていくしかないのか?」
 「問い、好奇心、興味、どう違うの?」
 「問いを立てると、問いかけるはどのように違うのだろう…?」「「自分に問う」と「他者に問う」はどう違うか?どちらが必要か?」
 「「問う」ことは、聴くことの積極的な態度か?」
 「問いの種類はどのようなものか?どれくらいあるのだろう…?」「(問うとき)答えをどこに求めるか?」
 「疑問を持つ人生と持たない人生、どちらが幸せか?」「「問い」によって、悩みが増えるか?」「迷いが大きくならないか?選択肢が増えることが、かえって安心するかも」
 「「問い」と「答え」、どっちが大切か?」「問いと答え、どっちが大事? 答えがないことが多いように思います。そのプロセスも大切にしたいかなと」
 「問う⇒問い⇒考えること 聞いて、みて、考え わからないことを教えてもらうことかなぁ?」
 「何故問うのか?」「問わなかったら、どうなるか?」「問わずに幸せに生きられないか?」

 この後、フリーに対話した。
 問いのレベルとして、「頭」のレベル、「感情」のレベル、そして「腹のレベル」というものがありそうだという話になった。一般には「頭」のレベルで、問いを立て、論理的に考えるというように見る。しかし、「感情」のレベル、さらに「腹」に落ちるレベルの問いと答えというものも大切である。特に、「怒り」や「悲しみ」といった感情から起こる「問い」に注目が集まった。
 「なぜ問うのか」ということは基底となる問いである。 
 これは人生が謎であり、不条理であるからである。問わざるを得ないのである。そして、近代人は、問う⇒考える⇒答える⇒考える⇒問う⇒…… これを繰り返さないと、すなわち思考停止になると生きていけないのである。コマのように、常に問いと答えの回転をし続けることによって、自分を自立させているのである。

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コメント

まさにどこで受け入れるかということもあります。
「覚悟」するという面もあると思います。
ただ、私は解けないかもしれない「謎」を解こうとする、あのパズルを解こうとする「楽しさ」を感じ続けていきたい気持ちです。

投稿: マラン | 2017/02/18 午後 08時40分

こんばんは。
とても楽しい集まりでした!ありがとうございました。結論から更に発展させてみたくて書き込んでみます。否定じゃありません。発展させると面白そうなので😃

人生自体が謎だから問いが発生するのだとしたら、問い続けても真理には到達できないのではないか?だとしたら問い続けることに意味は無いのではないか?

どこで受け入れるか、ですかね。
いかがですか?

投稿: 池田 | 2017/02/10 午後 08時59分

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