それでも人生にイエスと言う
「夜と霧」の著者V.E.フランクルの講演である。しかも強制収容所から解放された翌年1946年の講演である。フランクルの真髄が分かる記念すべき素晴らしい講演である。
私が人生になにを期待するかではなくて、「人生は私になにを期待しているか」と問うべきである。ここで言う「人生」とは、私なりに解釈すれば、世界、現実、他者といった言葉に置き換えていいものである。
我々は人生が出す問いに答えていく存在である。その問いは具体的である。生きている中での、いま、ここ、の問いである。
我々は快楽や力への欲求・意志だけでなく、意味への欲求・意志を持つ存在である。人は生きる意味・目的を求める実存的存在である。
その意味(価値と言ってもいい)をフランクルは3つに分類している。
創造価値は、仕事、家庭、趣味等での創造的行為によって実現する価値である。
体験価値は、自然や芸術に触れる時、愛を体験する時などに実現する価値である。
態度価値は、現実に対する態度によって実現する価値である。
私は前の2つの価値が実現しにくいぎりぎりの状況の中でも、最後に残される態度価値を今日は主に考えたい。
態度価値は「自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられずに逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか」によって実現する価値である。
これはフランクルの強制収容所の体験からきていることは間違いないが、現代の我々からすると次のような例が挙げられると思う。
過去のこと(生まれや生い立ち、育った環境など)、自分の身体のこと、自分の能力や性格のこと、職場や家庭の置かれた状況のこと、未来の死のこと、などである。一般に運命と言われるものであり、どちらかというと厳しい現実であり、マイナス的なものである。
しかし、これらに対する態度、心構え、受けとめ方によって価値が生じるというのである。私はここにこそ、その人の人格や徳といったものが現れると思う。
現実・事実に対して、感謝、喜び、愛などの態度を取れれば素晴らしいのだが、私はまだまだだ。
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