朗読者
映画「愛を読むひと」の原作であるこの小説は当然、名作である。
戦争の末端の加害者は追いつめられた人たちであり、戦争の犠牲者とも言える。私だって追いつめられ、極限状態になれば、同様な行為をするということである。
しかし、この小説は一方に片寄った単純な解釈をさせない書き方をしている。
むしろ、恐らく貧しさからきたであろう「文盲」のことがクローズアップされ印象に残る。それは「恥」というものを考えさせるし、世間並みの幸福より自分の魂の「自由と尊厳」を重視する意味を思い起こさせる。
この小説を読むと、逆に映画の良さも感じられるという稀有なケースである。ケイト・ウィンスレットはまさにはまり役。この本を読んでいて、彼女以外のイメージが浮かばないくらいである。筋も比較的忠実に映画化されている。
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コメント
とおりすがりさんのおっしゃるとおりのことを私も感じます。文盲がなかなかばれないことも変な気がします。
しかし、とにかくこの物語はアウシュビッツと文盲が核です。両方とも現代の日本では私も含めて実感できない、理解しがたいことです。理解したフリはできますが。
それから、これも現代の日本人には忘れられたこと。「自分個人の生活の幸福より、恥を知り、自らの尊厳を守ること」
この物語の核となるところをよくは理解できませんが、その重みというものを感じます。そこを私は買っています。
映画の方について言えば、この映画はケイト・ウィンスレットの存在感を感じる映画だと思います。坊や・マイケルとの関係の際の官能的な時も、裁判の時も、監獄の中での時も、そして自死する時でさえも。この面に関しては私は評価しています。
投稿: みやさみ | 2009/07/09 午後 10時11分
この映画についておしえてください。
裁判ではみんな冤罪だって知ってるのに、終盤では本を読んだ人は彼女が重ーい罪を犯したと思い込んでしまっている。
生き残った娘も、責任者の顔は覚えていなくて、本を読ませる変な人は覚えているのだから、その変な人が責任者でないことを知っているはずなのに・・・。
「彼女を許すようでお金は受け取れません」といいました。
そんなに怒りが強いのなら、なぜ裁判のときに他の被告人を許したのでしょう?
主人公も面会のときに「たっぷり反省したか?」というような意味の問いかけをしていますが、冤罪のひとには普通は「大変だったね、お疲れ様」ではないでしょうか?
なんだか変な物語です。
なにを言いたい映画なんでしょうか?
投稿: とおりすがり | 2009/07/08 午後 07時00分