2012/02/01

仕事の話を人前でする時

037 自分の仕事に関することを人前で話をする時に、大事だと思うことを自戒を込めて掲げておく。
1 準備をすること
 何よりも話す内容についての準備ができているかが、成果を左右する。内容の吟味、話し方のチェックなどをできるだけ丹念に行いたい。(実際は忙しくてなかなかできないのだが。)
2 問題解決志向
 仕事とは問題を解決していくことである。だから、できるだけ前向きな問題解決の姿勢が求められる。複雑に考え過ぎないで、常識的でバランス感覚のある、簡単な論理を使うのがいい。その方が、多くの人に受け入れられやすいからである。
3 制約事項の説明
 仕事を遂行していく上で、必ず人的、金銭的などの制約が伴う。完璧に条件が整うというようなことはありえない。だから、この点は簡潔に説明できなくてはならない。もちろん、弁解がましい説明をだらだらするのはマイナス効果だから、最後はできるだけ明るく前向きな言い方で締めくくりたい。

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2012/01/30

ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬

Images49 007映画の完璧なパロディだ!傑作だ。これは楽しく笑える映画だ。
 パロディだからといって、チャチな作りではない。大掛かりなアクションシーンも多くて、痛快だ。
 芸達者、ローワン・アトキンソンには感心しながら、大笑い!若い人のアクションとは異なる、大人の知恵の身のこなし方は、私のようなロートルには大いに参考になる??
 007のお約束シーンはほとんどなぞらえてくれる。美しい人たちも登場する。

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2012/01/29

あいさつ

Images48 私は人前でのあいさつが得意なわけではない。そのような私が苦し紛れに考えたあいさつの仕方である。
 まずは、あいさつの趣旨が伝わればいい。趣旨とは、あいさつに込める気持ち・思いである。お祝いか、お礼か、感謝か、などによって異なり、それによって、「おめでとうございます」「ありがとうございます」などの言葉になる。その一言、二言が言えればいい。
 この趣旨を述べる、あいさつの「最初」と「最後」が重要である。だから、さすがに最初と最後は少々抑揚を付けたり、強調した話し方をする。
 最初と最後の間に話す内容は、関連するものであれば何でもいい。できれば具体的で分かりやすい話題がいい。
 あいさつは、聞いている人にとっては、「あー、やってるな」くらいのものがいい。(実際、多くの人はあまり中身を聞いていない。) だから、すーっと終わる感じの短めでいい。

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2012/01/28

仕事を進めていく上での心構え

039 仕事を進めていく上での心構えとして、現在、大切だと思うことが3点ほどある。
 逆に言うと、これらは私が今のところ十分にできていないところでもある。反省し、実現できるようにしていきたいことである。
1 考える
 これは、「悩む」とか「怒る」といった感情に長い時間浸っているのではなくて、問題の解決へ向けて色々考えていくことにできるだけエネルギーを注ぐべきだということである。
2 常識、バランス感覚、普通の論理
 突飛なことではなくて、一般的な考え方と方法の方が分かりやすく通りやすい。「中庸」ということでもある。安易な妥協ということではないから、この常識・中庸の道をしっかりと見究める努力は必要である。
3 我々意識
 関係者と一緒になって、協力して仕事を進めていくということである。対立するより、共通の目標に向かって、共に知恵と汗を出すことが大切である。そのためにも同じ仲間、同士という意識を持ちたい。

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2012/01/27

まんがで読破 幸福論 アラン・作

Images47 まんがで読めるというのは、幸福!?
 このまんがの主人公が「ロラン」というのには笑った。(「マラン」ではない)
 このロラン、実を言うと、最後の方で、幸福論の作者アランを振り切って、精神的にもアランを乗り越えてしまうのだ。これにはびっくりした。
 気に入ったセリフが散りばめられてある。
*「意志」の力で、親切な言葉、感謝の言葉を言う。
*礼儀というのはもっと気楽でやさしいもの、つまり「思いやり」である。
*「恐怖」という「情念」は、状況ではなく、想像によって生まれる。
*人間とは、ひとり分の幸福では満足できないから、周りの幸福まで求めてしまう。
*時には情念に支配されたり、突然の不幸が襲いかかることもある。しかし、人間にはそれに耐える力が存在している。それは生命力であったり、幸福を求める力であったりする。時には人の力を借りなければ超えられないものもある。 

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2012/01/25

ALWAYS 三丁目の夕日 ’64

Images46 またまた泣いてしまった。
 映画の第3作目は、原作のマンガの中から、鈴木家(鈴木オート、自動車修理)と茶川家(作家、駄菓子屋、飲み屋)に絞った形で話が展開する。
 しかもトピックが「結婚」と「出産」という平凡だが、家族にとっては大きな転機になることを中心に据えている。だから、多くの人が共感できる家族の物語になっている。
 東京オリンピック、高度成長期、私が10歳の頃である。あの頃にはあまり気がつかなかった。今、振り返ってみると、その重要性がわかる、「家族の絆」や「人との繋がり」の喜びと充実感!まだ、あの頃はあった。
 出世とか、お金とかではなくて、自分の好きなことをやっていけ、というメッセージも伝わってくる。茶川家の淳之介は小説家を目指す。(私も小説を書いてみたくなる。)
 今回の映画でも、優しい人たち、魅力ある人たちが多く描かれている。特に女性たちがいい。堀北真希、小雪、薬師丸ひろ子らの演ずる女性たちが愛情溢れ、思いやりに満ちている。こういう女性に憧れるのは、おじさんのノスタルジーだとは思うが……。
 この映画の時代、とにかく地方から東京に人が集まってきた。集団就職、金の卵たち、という言葉もあった。これは日本にとって大きな社会現象であった。

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2012/01/24

哲学オデュッセイ⑥

Imagescacw8xa2 「人生の意味」についての話である。
*サルトル:人生の意味とは、自らの行動によって自己を実現することである。世界は全体としては意味がないので、私は自由に私自身の意味を措定することができる。それは「未完の作品」としてやってきて、しばらくそこにとどまり、個人とともに消え去るものなのである。
*人生の意味への問いは、今日では主観的にしか答えることはできない。意味は世界や自然の性質ではなく、人間特有の作り事である。重要なのは世界の中に意味を見出すことではなく、私たち自らが意味を与えることである。
*私たちを意味への欲求へと駆り立てている最も重要な理由は、私たちがいつか死ぬということを知っているためである。
*意味への問いは、人間だけに特徴的な問いである。しかもこの問いは、人間のあらゆる認識と同様に、個人的な経験に依存するものである。そのため私たちには、結局のところ、せいぜい自分自身の人生の意味を見つけ出すのが関の山である。……それなのに、なぜ私たちは人生の一般的な意味について好んで語ろうとするのか。

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2012/01/23

哲学オデュッセイ⑤

Imagesca3nmwmg いよいよ「幸福」がテーマになってきた。
*幸福の経済学の価値尺度によれば、人間関係、すなわち家族やパートナー、子どもや友人たちとの人間関係以上に幸福をもたらすものは、ほかにはない。二番目にくるのは、何か有益なことをしているという感情である。さらに状況次第では健康と自由である。
*マルクーゼ:私の幸福は、私自身との最も深い調和の瞬間である。
*エピクロス(写真の人)は、感覚的に経験可能な生き方以外の何物にも信頼を置かなかった。五感の及ばないあらゆる超自然的な事柄を拒絶した。神々や宗教は彼にとってまったく重要なことではなかった。死についても同様である。

 [幸福のための実践的な7つの法則]
①活動性
②社会的生活
③精神の集中
④現実的な期待
⑤前向きな考え方
⑥平然と不幸とつきあう
⑦労働による喜び

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2012/01/22

哲学オデュッセイ④

Images45 第Ⅲ部は「私は何を望んでよいのか?」である。
 これは「欲望」から「幸福」に至る話であり、私の最も関心のあるところである。
 また、「真善美」において、現代は「真」や「善」があまり信用されていない中で、「美」のことに関心が集まることに呼応している。
*生命はすべての部分の総体以上のものである。いたるところに原因と結果の単純な経過を見るかわりに、「自己組織化」ということを見る。
*ルーマン:社会システムもまた、言語的な(象徴的な)コミュニケーションによって発生したオートポイエーシス(自己創出)のシステムである。
*人間以外の動物は複雑な想像力がなく、彼らは「もはやない」ものについては考えることができず、「まだないもの」についても考えることができない。
*ジンメル(写真の人):財産もしくは所有は、対象物の助けによって心的に自己を延長する可能性であり、「おのれの自我を拡張すること」である。
*他人の感情生活があまりにも複雑すぎるとき、人はむしろ、より確実な商品のイメージや感情の世界のほうを頼りにする。
*ロールズの「正義論」には、「財産」「所有」と同様に、「感情」「情動」といった見出しも欠けている。
*ロールズ:「善さ」とは理性的な欲求の充足である。

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2012/01/21

哲学オデュッセイ③

Images44 第Ⅱ部「私は何をなすべきか?」においては、人生の末期の問題、特に「安楽死」の問題が印象に残った。
 安楽死について、一定の整理ができている。
①消極的・受動的安楽死~医師が死期の迫った患者の治療を中断することによって、その患者の最後をもたらす。
②間接的安楽死~医師が、強い鎮痛剤で治療を受けている患者をこのセラピーの結果としてより早く死亡させることを、受け入れる。
③自死の幇助~医師が患者のたっての願いにより、患者が生を終えるのを助ける。
④積極的安楽死~医師が患者の願いにより、薬剤もしくは毒物注射によって患者を殺す。

 安楽死に対する一般的な見解は、緩和医療(ホスピス等)を促進し、間接的安楽死によってできるだけ人道的かつ透明性のある処置が講じられるよう、最善を尽くすというあたりになるだろう。

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2012/01/20

武将 ソラノイロ りんすず食堂

040041042 引き続き、「石神秀幸2012版」で、今季初登場のラーメン店を訪問する。石神さんのセレクトと私の好みとは比較的一致する。
左写真:梅ヶ丘「武将」1月9日 「ラーメン蓮嘉」の並びのお店だったのにはびっくり!塩つけ麺というのは珍しく、さっぱりしていて、おいしい。麺は7分茹でる太麺だが、表面がつるつるしていていい。チャーシューは肉厚で炙ってくれているからうまい。接客がてきぱきしていて気持ちがいい。
中写真:麹町「ソラノイロ」1月14日 すっきり醤油味は寒い日にぴったりのおいしさ。スープ表面の油のおかげで最後まで熱い。麺、チャーシュー、メンマ、ネギ、どれも存在感がある。
右写真:大島「りんすず食堂」1月15日 若い男性系のボリュームに圧倒される。(写真もぶれてしまった。)

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2012/01/19

蜂蜜

Images43 今や世界的に注目されている、トルコの監督セミフ・カブランオールの三部作「卵」「ミルク」に続く最終作である。
 この三部作は時代を遡っていく形になっているので、この「蜂蜜」という作品は、主人公ユスフが6歳の時を描いている。自然、蜜蜂、子どもたち、父、母、……。
 ロングショットが続く。我々はそれをただ見つめる。その眺める楽しみを味わう。見ながら内省する。考える、感じる、想像する。セリフが少ないから、それができる。
 自分の子ども時代を思い出す。通っていた学校を心に浮かべる。(子役に引き込まれる。)
 時間がゆっくり流れる。自然そのもののゆったりとした感覚である。
 「朗読」「赤いバッジ」「養蜂」「舟」「月」「ミルク」といった象徴的なトピックが散りばめられている。
 最大の事件は、ユスフの父が事故で亡くなることである。ユスフは父が帰らなくなってから、急速に言葉を失っていく……。
 トルコの田舎の生活が分かる。自然とともに暮らすトルコの人々のことを見ることができる。

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2012/01/17

まほろ駅前多田便利軒

Images42 2人ともバツイチ男の便利屋の物語である。
 この2人、本人たちもそうだが、ゆるくて弱々しい人たちとの相性がいい。子どもたち(その中でもネグレクトされた子どもたち)、夜逃げした人、外国人娼婦たち、薬売人等々…。
 見ているこちらもゆるくなってしまう。ほっとしてしまうところがある。まともな者が出てこない。それでもみんな生きている。
 この現代日本においては奇妙なテンポで話が進む。そこにそれなりの事件も起きる。
 それでも、とにかく人と人とのつながりはほしい。

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2012/01/16

127時間

Images41 渓谷で遭難、右手が岩に挟まれ、身動きができなくなる。助けは来ない。127時間閉じ込められた男が最後に取った方法は……。実話に基づいた映画である。
 私も単独行動をよくするが、私とは真逆の場所での出来事だ。大地の裂け目の危険な所だ。私が東京圏のラーメン店を単独で訪問するのとは全く異なる?
 人生においても困難な場面に会う。その時は、もがき、色々トライしてみるだろう。あきらめ、悲嘆にくれることもあるだろう。
 しかし、生きようとする。まさに「心」の一部を切り取ってしまうようなこともして、生きてきた。
 それは生きる価値があるからである。人との関係があるからである。家族との繋がりもあるからである。これらが生きようとする強烈な力になる。

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2012/01/15

哲学オデュッセイ②

Imagesca06u6f4 (写真は作者のリヒャルト・D・プレヒト 1964年生まれである。)
第Ⅱ部 私は何をなすべきか?
 第Ⅱ部の前半は「道徳」についてである。この場合の道徳とは、他者との関係(特に良好な関係)のことである。
*人にフラストレーションを起こさせるのは、自分に対する他者からの共感の欠乏よりも、自分自身から共感を寄せることのできる他者の欠乏である。
*他の人々と交流する心の用意と他人を気づかうことは、自分自身の視野狭窄から抜け出すことになる。他人のために何かをすることは、自分自身の心のために大切なのである。例えば、素敵なプレゼントを選び出し、贈られた人が喜ぶのを見る人は、それによって同時に自分自身にもプレゼントしていることになる。
*他人を喜ばせることが私たちを上機嫌にするというのは明らかである。他人の微笑や輝きにあふれた表情は、私たちの良き一日のための報いとなる。
*カント:道徳的にふるまうことができる自由を持ち合わせた人は、その人の上に立つものが何もないような特別な存在である。……人間における唯一の善は、その善き意志なのである。
*実際の人間は、どうも道徳的な感受性がはじめに生じ、その後に道徳法則が続くようである。
*道徳的な行為がなされるのは、それがたいてい個人にとっても、その個人が属する集団にとっても有益だからである。
*道徳哲学から直観や本能をなおざりにしようとしてはならない。

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2012/01/14

哲学オデュッセイ①

Images40 「哲学オデュッセイ(挑発する21世紀のソクラテス)」(リヒャルト・D・プレヒト著、西上潔訳、悠書館)は、ドイツで100万部を超えるベストセラーになった本である。
 脳科学をはじめとする現代の最新科学と哲学が縦横無尽に交錯して展開するので、面白い。私はどうしても哲学の方に関心が傾いてしまうが…。
 カントにならって、3部構成になっている。印象に残ったフレーズを掲げておく。
第Ⅰ部 私は何を知ることができるか?
*ニクラス・ルーマン「まったく単純に、そうでありたいという要求として個人なのである。そして、それで十分なのだ。」
*まず、感情が思考に対して、事の成り行きを予知すべく指示を与える。情動による後押しなしには、思考は動き出さない。
*「感情」は「情動」と「想像」の特別な混合物である。
*人は、知っているものと知らないものを分けるだけではない。重要なのか重要でないのかについても区別している。
*言語の発展を促したのは、真理と自己認識への憧れというよりはむしろ、意思疎通の社会的欲求であろう。

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2012/01/13

ひだまり 楽観 しみる

034035036 石神秀幸首都圏No.1ラーメンガイド「神ラーメン」Selection2012が発行されたので、これをもとに早速、新しいラーメン店を訪問した。
左写真:千駄木「麺や ひだまり」12月30日 塩スープに深みがあって、きれいなラーメンである。おいしい、完食!行列店になっていた。
中写真:六本木「美麺屋 楽観」1月7日 スッキリ醤油味はおいしい。玉ネギのきざみとスープがよく合う。表面の油が多めなので、長い間スープが熱い。麺は細くて固めに茹でてある。六本木ヒルズからも離れた住宅街にひっそりとあるこの小さなお店に若い男性客が続々とやってきていた。
右写真:目黒「麺屋 しみる」1月8日 濃い鰹節のスープ。麺は日本そばのような仕様で、これは面白い。

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2012/01/12

ORAGA NOODLES 芳たけ MILE STONE

027032033 昨年末に、「ラーメン新潮流」に出ているラーメン店を3軒訪問した。
左写真:五反田「ORAGA NOODLES」12月17日 私の好きな味のつけ汁である。まろやかさ、とろみがいい感じである。濃厚過ぎないのがいい。麺もおいしく食べやすい。スープ割りも玉ネギのみじん切りを入れてくれて、うまかった。
中写真:大森「麺処 芳たけ」12月24日 スープが最後まで熱くておいしい。深みを感じる。麺との調和もいい。ポルチーニ茸のほのかな香りも上品であり、鶏の首から取った塩スープもいいですね。
右写真:京急蒲田「MILE STONE」12月27日 具だくさんで、豪華、キノコ風味も漂う。それらがスープに溶け込みおいしい。チャーシューが柔らかい。

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2012/01/11

アバウト・ア・ボーイ

Images39 怠け者で、自嘲的な英国男にヒュー・グラントが合っているように思えた。
 これは彼の演技がうまいから?
 人間は孤独のままでいられるのか。…いられないだろう。人との関係は必要である。

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2012/01/10

家族の絆

038 この時期、家族(親族)が母のところに集まる。
 お正月ということで、また父の命日でということで、2回に分けて、10人くらいずつ集まる。姉夫婦の家族も、妹夫婦の家族も揃う。
 妹などのおかげで、料理なども整い、食べながらおしゃべりをし、楽しむ。これで家族の絆が深まる。
 年の初めの方に2回続けて会うことにより、今年1年間またよろしくお願いします、という気持ちになる。幸せなことである。

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2012/01/09

思想としての社会学

Images38 「思想としての社会学」(富永健一著、新曜社)は浩瀚な本なので、通読もできてはいない。目次を中心に簡単にまとめておく。
 社会学第一世代は、フランス革命後の時代であり、19世紀の西洋社会の近代化という問題設定であった。サンーシモンの「産業主義」、コントの「実証主義」、スペンサーの「自由主義」の思想が代表である。
 社会学第二世代は、1870年代から第一次世界大戦前までの「ヨーロッパの平和時代」であり、近代化という問題設定を超えて、社会学の方法論的革新を生み出した。デュルケームの「機能主義」(主なテーマは社会分業論)、ジンメルの「相互行為主義」(主なテーマは社会分化論)、ヴェーバーの「理解社会学と比較近代化」(主なテーマは資本主義精神論)の思想が代表である。
 社会学第三世代は、第二次世界大戦後の時代であり、社会学を発展させた。パーソンズの「行為と社会システム」(ヴェーバーの行為理論を社会システム理論へと発展)、シュッツの「現象学的社会学」(ヴェーバーの行為理論に現象学を取り込む)、ルーマンの「『社会』」(社会システム理論を意味システム理論へと発展)の思想が代表である。
 特に、第三世代の社会学に関心があるので、もう少し書いておく。
 パーソンズは、コントによって創始されデュルケームによって完成された「実証主義」と、ヴェーバーがドイツの新カント派から社会学にもちこんだ「理念主義」を統合して、「主意主義的行為理論」を主張した。また、社会システムを社会的行為のシステムであるとし、行為理論を社会システム理論に繋いだ。
 シュッツは行為理論に取り組み、そこに現象学を取り込んだところに新しさがあった。
 ルーマンは、社会システムを社会的行為のシステムからコミュニケーションのシステムへと転換することによって、社会システムを自己言及システムと見なした。また、意味システム理論を発展させた。

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2012/01/08

思想地図β 2

Images37 「思想地図β 2」(東浩紀編集長)は東日本大震災のことを取り上げており、ベストセラーになった。(1冊あたり635円が義援金になる。)
 巻頭言で東さんは、「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」というタイトルを使っている。強烈な印象だが、私も同様な感覚は持っている。
 東さんがサブカルチャーのふわふわした感じから、現実主義的な感覚に変化してきている印象を持った。私の感覚に似てきている、私にとってはいい意味で「おじさん化」しているという感じである。
 東さんが、「言葉、思想に力はあるのか」と問い、言葉・思想についてもがき、苦しみ、格闘している様は伝わってくる。
 大震災による「喪失」、その喪失を引き受ける仕事はしんどいことだが、やろうとしている意欲を感じる。私には体力・精神力がないが、40歳の東さんにはしてほしい仕事である。
*絶望を語らない方法で希望を語ろうとしてももう語れない。
*喪を通じて連帯を構築する必要がある。
*希望ではなく絶望を前にした連帯。未来ではなく喪失を前にした連帯。アッパーな連帯ではなく、ダウナーな連帯。

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2012/01/07

反哲学入門③

Imagescapq61v2 しばらく中断していたが、「反哲学入門」(木田元著)の最終章である。木田さんが最もコミットメントしている「ハイデガー」についてである。
 第6章 ハイデガーの二十世紀
*「存在」とは、「一つに集める働き(レゲイン)」であり、そういう意味では「存在」は「ロゴス」(レゲインから派生した名詞)である。
*存在者が存在のうちに集められているということ、存在の輝きのうちに存在者が現われ出ているということ、まさしくこのことがギリシア人を驚かせた。
*「それは何であるか」と問うときには、問う者は問いかけられる存在者の全体の外の特権的位置、あるいはそれを超えた特権的位置に身を据えているにちがいない。
*「存在」というものは、現存在(人間)がああ了解したりこう了解したり、現存在に左右することのできるようなものではなく、むしろ存在自体の方から現存在に、ああ現われてきたりこう現われてきたりするもので、現存在はそれを受け容れるしかない。それを「存在の生起」と呼ぶ。その「存在の生起」は「言葉」の中で起こる。

 私は木田さんの本をハイデガーのことを中心に5,6冊読んできた。教えられること大である。そこから、私の(哲学というのではなくて)、人生論・幸福論といったものを紡ぎ出してきた。

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2012/01/06

やさしい嘘と贈り物

Images36 ちょっと作り過ぎで、ありえない物語のような気もするが、泣いてしまった。
 高齢でアルツハイマーの夫=父に対する家族愛が素晴らしい。夫思い、父親思いの家族たちに感動する。
 やはり、今の妻・家族が自分には一番ぴったりと合っている、という感覚は分かる。そう思えるのは幸せなのだろう。
 だから、この男性の主人公(夫=父)は、アルツハイマーになっても幸せだったのだろう。

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2012/01/05

ワイルド7

Images34 最初はどうなるかと思った。あまりにマンガチックで、薄っぺらな設定だったので。
 しかし、何とか最後まで見させた。
 ひとつは、オートバイが面白い。オートバイ好きにはいい映画なのではないか。
 それからアクションシーンにかなり多くの人間(エキストラ)を使っていて、それはなかなかのものだった。撮影がたいへんだったのではないかと思った。

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2012/01/04

源氏物語 千年の謎

Images33 歴史上の実在人物と源氏物語の登場人物とを絡め、錯綜させて描いているから、それなりに面白い。
 歴史上の人物とは、紫式部は当然のこととして、藤原道長、一条天皇、彰子、安倍晴明らである。源氏物語の人物は、光源氏を始めとして、帝、桐壺、藤壺、六条御息所、夕顔、葵などである。
 平安絵巻だから、映像は美しい。しかし、この映画からでは、紫式部と藤原道長との関係に説得力を感じない。式部が源氏物語に込めた意味合いもよくは分からない。
 一般に伝えられているところでは、式部は映画で描かれているような人物でなく(非常にナイーブな人だったと思われる)、道長との関係も映画のようなことはありえないと思うせいもある。
 (映画として大胆な解釈を楽しめばいい、と言われればそれまでだが…。)
 いずれにせよ、源氏物語は、男と女の間の愛と憎が、時代を越えて、身分を越えて、永遠の話であることを証明している。言葉と物語の力を感じる。
 私は単純に、源氏物語の永遠性は紫式部の才能の結実だと思っている。男女の愛、もののあはれを描いた傑作である。千年前に書かれた世界最古の作品ということからすれば、世界遺産級の作品だと思う。

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2012/01/03

マランの幸福論⑥

Imagescabsrwye このマランの幸福論の話には、昨年の11~12月頃に、家族(妻と娘)につきあってもらった。感謝します!
 そこでの究極の質問:「あなた(マランさん)は幸せですか?」 これに対して、私は即座に「幸せです!(笑)」と答えた。その主な理由は以下のようなものである。
 まずは、家族・親族に恵まれている。妻・娘と暮らしているとともに、米寿を迎えた母や姉の家族・妹の家族たちに支えられている。
 我が家には雌猫もいるから、なぜか私は多くの女性に囲まれている。これをもってしたら私は幸せというしかないだろう!?
 次に、年齢を重ねてきたせいでもあろう(?)、感謝の気持ちが強くなってきたことである。生い立ち、結婚、子育てなど過去のことに対する感謝の気持ちがじわじわと高まっている。
 現在の生活を楽しむこともできてきている。未来については、残された人生からして、あまり大きなことは言えないが、小さいながらも希望を持っている。
 さらに、長年、哲学に親しんできたことがある。
 私は、生きることの不安を背景に、私の「存在」の不思議さをずーっと感じ、考えてきた。そこから、私は、自分の欲望のことと他者との相互承認のことを長くテーマにしてきた。
 そうすると、幸福論には当然繋がるし、「アランの幸福論」には触発された。私の場合、哲学といっても、厳密性に欠けるところ大であり、どちらかというと人生論・幸福論に近いものである。
 これからも幸福をできるだけ全身で感じ、意志的に幸福を生み出していきたいと考えている。
(いずれにせよ、ここまで読んでくださいまして、ありがとうございました。)
(画は老子である)
 

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2012/01/02

マランの幸福論⑤

Imagesca3nmwmg 人は一人では生きていけない。幸福にとって、他者との関係、特に他者との相互承認は重要なことである。
 職場、家庭、地域等々、それぞれの場で、他者との相互関係・相互承認があるわけだが、その場合、「役割」ということがキーワードになる。
 まずは、職場をイメージする。
 大人になる・社会人になるとは、職場において、たくさんの役割を担い、たくさんの人と接することである。役割を遂行していく中で、他人のために働き、他人からの承認も得ていく。これは辛いことも多いが、基本的には楽しいことであり、自分の幸せのためには必要なことである。その場合、まずは、苦しいことが多くても役割を「誠実に」遂行していくことが基底にあるべきである。
 次に、結婚のことを考えてみる。
 結婚は、夫と妻の役割を担い、お互いに承認する関係である。出産・子育ても、父として母としての役割を担い、承認する関係である。そこに、喜び・楽しみを見出すから、その関係を選択していくのである。
 以上のような、「役割」についてだが、もちろん自分を見失うに至るまで役割に縛られるのはおかしい。しかし、役割を通して、他人と優しさや思いやりを交換し、相互承認していくことは喜びに繋がる。他人のために何かをすることは、自分の心を豊かにし、幅を広げる。
(写真はエピクロスである。)

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2012/01/01

マランの幸福論④

Imagescakopaqr ここで、「アランの幸福論」(写真はアラン)になぞらえて、「マランの幸福論」を簡単にまとめておく。取りあえず、次の2点である。
1 「私」の人生の主人公は「私」である
 これは近代の理念(自由と責任)から、導き出せるものである。
 すなわち、外から誰かが与えてくれるのではなくて、一人ひとりが自分なりの幸福感や人生の目的・目標を追求し、持たなくてはならないということである。選択の自由があるが、それぞれが独自に実感を伴ったものを求めていかないと幸福に繋がらない。これが近代人の宿命であり、厳しい覚悟も必要である。
 もちろん、自立的で自己責任が取れる人にとっては、自由度がそれ以前の時代に比べて格段に拡大し、幸せに繋がっている。また、以上のような考え方によって、他人や社会に責任転嫁するのを防ぐ意味合いもある。
2 自らの幸福を追求することは、権利であり、義務である
 アランは、「人は誰でも幸福になれる」ということを前提に、「幸福になることは義務である」と言い切る。幸福になることを「誓い」なさい、とまで言う。
 私からすれば、幸福になることこそが、人生上の唯一の義務とも言えるのではないかと思う。だから、それは大いなる権利にもなる。
 さらに、「自分が幸福にならなければ、他人を幸福にできない」ということも覚えておきたい。

 このように、「私=自己」の観点からまとめていくと、自分は何を望んでいるのか、という欲望論に繋がっていく。この自らの欲望を見究めることは、幸福にとって重要と考える。
 人の欲望は、金・地位・名誉といった多くの人が持つだろう「一般欲望」と、その人らしさが現われる特別に持っている「固有欲望」に分けられる。固有欲望は、趣味においても、家庭においても、仕事上においても存在する。
 どちらも必要であり、どちらかに片寄り過ぎると行き詰る。ただ、本日の話の流れからすると、「固有欲望」の方を自覚し、大切にすべきことを強調しておきたい。
 一方、「自らの」欲望と言っても、そこには他者が存在し、他者の欲望が反映している。一人では生きていけない、社会的存在である人間は、他者や他者からの承認は非常に重要である。そのあたりを次回に述べたい。

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2011/12/31

マランの幸福論③

Imagescafcb3wx 第3回目で、起承転結の「転」に当たるので、今回は各論的なことを書く。
1 「成功」と幸福について
 成功とは、金、地位、名誉等の獲得を指す。
 成功が必ずしも幸福をもたらさないということは、大体の人が知っている。その通りである。
 しかしながら、大成功は全く必要ないが、一定の成功を目指していいし、その目指す過程に幸せを感じる人も多い。(現代日本では、ディオゲネスのように樽の中で暮らすことを勧めることはできない。)
 アラン的な言い方からすると、「成功することは義務ではない。しかし、幸福になることは義務である。」というようなことになる。
2 「機嫌」と幸福について
 「成功」より、「機嫌」の方が、幸福との相関関係は高いだろう。なぜなら、不機嫌な人が幸福なのは想像できないし、幸福なら普通は機嫌がいいだろうから。
 機嫌がいい、というのは上辺だけを取り繕った「上機嫌ぶり」といったものではなくて、心底からの機嫌のよさである。
 これは、幸福を目指す「意志」が大切であるとともに、幸福を全身で受けとめ、感じるということも重要であることを意味している。
3 「ライフサイクル」と幸福について
 子ども期、青年期、成人期、高齢期とライフサイクルによって、幸福の色合いが異なるのは当然である。
 例えば、先ほど述べた「成功」ということで言えば、青年期、成人期はある程度、成功を目指すのが一般的である。しかし、高齢期に入ってきたら、成功と幸福はほとんど関係がなくなってくる。
4 「性格(タイプ)」と幸福について
 性格の細かい分類についてはここでは述べないが、タイプによって異なっていることは多くの人が知っていることである。
 例えば、内向型の人と外向型の人では、目指す幸福の内容や、幸福に対する感じ方も異なるだろう。異なっていていいのである。
 だから、幸福を他人と比較できないし、他人に押し付けることもできない。

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2011/12/30

マランの幸福論②

Imagescasc38i6 今回の第2回目は、空間軸で見てみたい。
 まず、中心に、「私=自己」を置く。その「私」の周りに、同心円状に内側から、「家庭」、「職場」、「地域」、「都市=首都圏」、「国=日本」、「世界」、「宇宙」と描いてみる。この図によって言えることがいくつかある。
①欲望を持って生きている「私」が中心にいなければならない。「私」は他のもの(他者)とは異なる存在であり、中心に位置づけることは自然なことである。(これは自分勝手なという意味の「自己中心的」という言い方とは全く異なる。)
②この世での、他者との繋がり、位置づけを空間的に理解できる。「私」は他者に働きかけるとともに、他者から支えられたり、承認されたりする存在である。(もちろん、他者から批判されたりもする。)
③その人が描ける同心円図が調和した形になっている人は幸せである。自らの欲望が素直な形で発露され、他者との相互承認関係も自然かつ豊かに行われている状態のことである。
 このあたりを理解しておくことが、現代の日本においては幸せに繋がると私は考える。これから逸脱したものとして、例えば、極端な「原理主義」、「オカルト宗教」などが挙げられる。「家庭」「職場」「地域」などを一気に通り越して、いきなり「世界=人類」の救済などと主張する人は幸せとは思えない。「セカイ系」の若者たちにも似た感覚があるのではないか。

 第1回目、2回目で時間軸、空間軸を使って説明してきたように、「マランの幸福論」は常識的であるとともに、常にこの2つの軸から多角的に捉えていく。
 いくつかの質問が想定されるので、それに答えていく。
 多角的に捉えることで、「自分」と「他者」を比較することを狙っているのか、という問いである。それは、全く逆であり、比較するとか過度の競争をするとかは幸福には繋がらないと私は考えている。(それは精神医学や臨床心理学が教えるところである。) むしろ、私は、それぞれの人間が独立・独自の存在だということを強調している。
 それでは、ポストモダン的な相対主義の考え方(人はそれぞれでいいんだという考え方)か、といった質問がある。これに対しては、まずは、偏執的な宗教のような絶対主義ということはありえない。しかし、各自がバラバラでいいといった相対主義に徹しているわけでもない。(だから、このような「マランの幸福論」を打ち出しているのである。)
 (写真は、バートランド・ラッセルである)

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2011/12/29

マランの幸福論①

Images32 近代(19世紀後半から20世紀前半)のヨーロッパにおける3大幸福論をご存知だろうか。
 一般的には、スイスのヒルティ(写真の人)(1833~1909)、フランスのアラン(1868~1951)、イギリスのラッセル(1872~1970)の幸福論を指しているようである。
 しかし、これらは時代的にも、国柄においても異なるため、私は、現代の日本の平均的なところの幸福論を述べたいと思う。ただし、「マランの幸福論」というタイトルからも分かるように、フランスのアランの幸福論にたくさんの示唆を得ていることも事実である。
 私は取りあえず、「幸福=幸せ」を、「自分の人生に対する満足感」と簡単に定義しておきたい。
 私は、(幸福について真剣に考えた人にとっては)幸福は、古代から一貫して「内面的」なものと捉えられていたと考えている。容貌、服装といった、外から見えるものでは掴みきれない。また、金、地位、名誉といったものでも測りきれない。
 幸せな気持ちや感情が伴っていなければ、やはり納得がいかない。私自身は、それはエピクロスが言うような、「アタラクシア」(心の平安)といったようなものと思っている。
 それを今回の第1回目では時間軸で見てみたい。
 自分の人生の過去に対しては、感謝の気持ちを持っている。現在の自分の生活を味わい、楽しむことができる。そして、未来の自分の人生に対しては、小さいながらも希望を持っている。このような感じを持っているというのが私の幸福のイメージである。
 私はとにかく内面重視だ。主観的・実存的観点からの考察が主だ。だから、国民幸福度調査のような統計的観点とはかなり距離がある。

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2011/12/28

北の夏風 ②

Images31_2 作者のことをよく知ってから、その作品を読むというのはあまりないことだから、それは貴重かつ楽しい経験である。
 デリダの言う「作者の死」(これは作者のことより作品そのものを分析・評価すべきということを含意する)という読み方とは全く異なる読み方になる。小野先生と会話したことも相まって、作品を楽しむことができる。
 この紀行文の中で出会った人たち、特に若い女性たちとは、その後再会できなかった人が多いということだが、そのような後日談も色々聞かせてもらった。出会った人たちは、この作品の中で、そして小野先生の心の中で、今でも生き生きと生きているのを感じた。
 今回は復刻版ということである。30歳の頃の小野先生と現在(79歳)の小野先生がそれほど変わっていないところも分かる。例えば、「酒と人生を愛する人が好きである」というようなところである。
 一方、今回加筆したところではないかというのも散見される。それは、少々おじさん的な理屈っぽい教訓を垂れているところである。(もし30歳の時にその部分を書いていたら、相当老成していた?)
 ところで、私も約30年前、26歳の時に、政府派遣で中国を3週間くらい訪問した。小野先生とキャラクターの違いであろう、ほとんど冒険をしていない。それに小野先生ほどの文筆力がないので、さしたる紀行文も残していない。改めて小野先生のこの作品に感心してしまう。

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2011/12/27

北の夏風 ①

Images30 小野泰次郎先生の「北の夏風」~ソ連・フィンランド人間紀行~(河出書房新社)を読んだ。
 今から50年ほど昔、1962年(昭和37年)(東京オリンピックの2年前!)の小野先生30歳の時のことである。旧ソ連を経由してフィンランドに赴いた約4週間の旅の話である。小野先生は、世界137ヶ国の若者がフィンランドの首都ヘルシンキに集まって催される「第8回世界青年学生平和友好祭」に参加する日本団員200名の一人であった。若い新劇人として参加したようである。
 まさに、社会主義の、あの時代、あの場所、あの催し、といったものが感じられる。月並みながら、「半世紀」の月日や「青春」といったものが懐かしい。
 フィンランドは12世紀から19世紀初頭までがスウェーデン王国の属領で、その後1917年(ロシア革命の年だ!)に完全独立するまでは帝政ロシアの自治領だった。私にとっては、映画「かもめ食堂」の印象が強いのだが、この本を読んでも、フィンランド人の質素な国民性を感じた。
 社会主義、旧ソ連といっても、この紀行文には、「若さ」が漲っている。主義・イデオロギーより、人と人との出会いが肝心だ。特に男女の出会いこそが永遠のテーマだ。(最近、「源氏物語」の映画を見ただけにそう思う。) 肉感的女性がお好きなのも率直に描かれていて、妙に共感してしまう。
 一つの映画を見ているような紀行文だ。情景が浮かぶように書かれている。青春映画であり、ロードムービー的でもある。国際色豊かな舞台を背景に、様々なエピソードが展開しされていく様は、演劇というよりも実写の映画を見ている感じである。
 エピソードを単純に時間順に並べるだけでなかったり、時々話を脱線したり飛躍させたりして、飽きさせない構成である。この当たりは、さすが演出家であり、エンターテイナーだなぁと思った。

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2011/12/26

おいしい食事と楽しい会話

Imagescakqvumq 職場の忘年会、古くからの友人との忘年会、そして家族のクリスマス・イブと3日間続いた。
 おいしい食事をしながら、会話をするのは楽しい。食事も堪能できる。、食べながらだから、リラックスできて会話も弾む。相手の話を聞き、こちらからも話をする。これは人生の大きな楽しみだ。この幸せを改めて発見した。
 一度の会食では全てを語ることはできない。全てを理解することもできない。しかし、少しずつ積み重ねていく楽しみがある。その過程そのものが楽しみである。

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2011/12/25

O先生宅訪問

030 私より年上の3人の男性と一緒に、共通の先生であるO先生宅を訪問した。
 午後3時頃に到着し、午後10時頃に帰途についたのだから、約7時間も楽しい時を過ごさせていただいた。
 何と言っても、奥様のおいしい手料理に感動した。次から次へと登場するご馳走に、大満足!
 O先生は79歳。一時期、相当に体調を崩したと聞いていたので心配していたが、元気だった。(我々の訪問が少しは好影響に働いたとしたら、嬉しいことだが。)
 今回の訪問は、O先生が復刻のような形で本を出版されたことが一つのきっかけであった。それなのに私は事前に送られてきたその本を読んでいかなかった。先生、すみませんでした。後日、この本の感想をO先生に伝えることを約束してきた。いずれにせよ、O先生の本執筆に対する情熱を感じた。
 忘年会を兼ねたこの会では、思い出話や近況報告、そして、人生論など様々な話が飛び交い、大いに盛り上がった。その内の、私が印象に残った3つだけを書いておく。
*「欲望」と「目標」について。特に、年老いてくると欲望が衰退してくるので、目標をしっかりと掲げ、自分を鼓舞しなくてはならないか?いやいや、そうではなくて、少ないながらも自分の欲望に素直に従って、目標というより、自らの美学に沿って生きていくのがいいのではないか?
*お金を出してカラオケで歌を歌うことを楽しむ、本を買って読むことを楽しむ。これらのことと、劇を演出すること、本を書くことといったことは当然異なることである。それは苦しみを通過したことによる、より一層の楽しみと喜びを求めているからか?そこに、何かしらの「こだわり」があるのか?
*嘘を真実のように語ることはよくすることである。日常会話においてもよくあるし、演劇、ドラマ、映画などはそれで成り立っている。その逆、「真実を嘘っぽく見せる」。これも組み合わせると、いわゆる「韜晦(とうかい)」になる。これをうまく使ったら、面白くなるだろうなぁ、と思った。

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2011/12/24

反哲学入門 ②

Images29 木田さんは現在83歳、大病も経験してきているが、今はどのような生活をされているのだろうか。
第3章 哲学とキリスト教の深い関係
*ニーチェは「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」と言っている。
*プラトン~アウグスティヌス主義教義体系は古代末期から13世紀頃まで。アリストテレス~トマス主義教義体系は13世紀から。その後、プラトン主義の復活もある。
*デカルトにおいては、まだ、キリスト教が神と呼んだ超自然的原理の出張所のようなものが、人間のうちに設定されたようなものである。
第4章 近代哲学の展開
*カントのコペルニクス的転回:「対象がわれわれの認識に依存している」
*ヘーゲルのもとで、超自然的思考様式(形而上学)が理論として完成し、以後は技術として猛威をふるうことになる。
第5章 「反哲学」の誕生
*(ハイデガーが言う)「ドイツ形而上学の系譜」:「意欲・意志」の方が、「表象・認識」の能力よりも根源的である。
*ドイツ語の「意欲」「意志」はむしろ「生命衝動」に近い意味である。
*ニーチェ:「高揚するためには、われわれはおのれの信念において安定していなければならないということから、われわれは、<真の>世界は転変し生成する世界ではなく、存在する世界であるということを捏造してしまった。」
*ニーチェの「力への意志」とは、美による救済、芸術によるニヒリズムの克服といったことにつながる。

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2011/12/23

反哲学入門 ①

Images28 木田元さんによる西洋哲学史である。
 さすがによく知っている。それとともに、時々脱線したり、話を膨らませたりしてくれているので、面白い。
第1章 哲学は欧米人だけの思考法である
*(木田さんは「哲学」を「超自然的原理」と見ている。) 自然は超自然的原理(「イデア」「純粋形相」「神」「理性」「精神」…)によっては、形を与えられ、制作される単なる材料になってしまう。もはや自然は生きたものではなく、制作のための無機的な材料・質料にすぎない物、つまり物質になってしまう。超自然原理の設定と物質的自然観の成立は連動している。
*丸山真男は、すべての神話は、「つくる」「うむ」「なる」という3つの基本動詞で整序できると主張している。
第2章 古代ギリシアで起こったこと
*キルケゴールはソクラテスの言動について、否定のための否定、無限否定性としてのアイロニーと言っている。
*アリストテレスはプラトンの考え方を「異国風」と呼んでいる。アリストテレスはそれを批判的に巻き戻して、ギリシア伝来の自然的思考と折衷しようとした。もっとも、彼もプラトンの超自然的思考様式を修正しながらも継承していく。

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2011/12/20

油そば総本店 ばりき家 だるまのめ

026028029 新しくできた、比較的近くのラーメン店を3軒訪問した。
左写真:新宿「油そば総本店 新宿中央東口店」12月16日 油そばとして、洗練されている。7分かけて麺を茹でる。温玉ともうまく調和する。油そばにはラー油とお酢は必須である。おいしかった!
中写真:高田馬場西側「横浜家系豚骨ラーメン ばりき家」12月18日 細麺の家系ラーメンは初めて食べてみた。思ったよりこってりしていなかった。ほうれん草をトッピングしたのはよかった。
右写真:歌舞伎町「だるまのめ」12月20日 左写真の「油そば総本店」と同系列の店である。焦がし黒マー油はやはりうまい。スープが長い間熱く、細麺ともよく合う。

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2011/12/17

子どもとはじめる哲学

Imagescat0r6gg 「子どもと哲学を」の著者、日本女子大学教授森田伸子さんと首都大学東京准教授西山雄二さん(写真)のトークイベントに参加した。
 面白かったし、勉強にもなった。
 母親役と、やんちゃな息子役を、森田さんと西山さんが楽しく演じてくれた。と言ったら、当人たちは怒るだろうか、笑うだろうか。当然、後者だろう。
 その「笑い」についての、両人の考察は面白かった。キリストは笑わない。ニーチェのツァラトゥストラでは、子どもは笑っている。笑いには神をも凌ぐ力がある。西山さんが紹介してくれた、エーコの「薔薇の名前」を読みたくなった。
 私は、「子どもと哲学を」の中に記載されている、「じぶんじしんは死なない」という言葉にこだわった。
 極僅かだろうと思うが、この言葉と幼弱性(自分は万能な特別な人間だと思うこと)が結びついて、自殺を試みてしまう「若者」がいるのではないか、という危惧である。その僅かな人間のことを考えると、笑えない。

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2011/12/15

忘年会

Imagesca75k1q6 忘年会2回続けて参加できなかった。
 仕事や用事が原因である。
 だから、今年はまだ忘年会を経験していない。
 そのせいで、風邪を引いていないのか?

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2011/12/13

Wasted Time  ゼロPLUS ふわふわ

0230251lf6x 「ラーメン新潮流」による訪問は続く。
左写真:渋谷「Wasted Time ~feat.楽々~」11月26日 肉と煮干しスープが売りである。
中写真:表参道「ラーメンゼロPLUS」12月4日 大体がスープにあまり味が付いていない。それがいいのだ。だからスープをじっくり楽しめる。そして完食だ。
右写真:四谷三丁目「ふわふわ」12月10日 一条流らしく、しょっぱい味噌ラーメンだった。(あえてラーメンの写真を撮らず、店構えの写真を使った。)

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2011/12/11

RAILWAYS 2 愛を伝えられない大人たちへ

Imagescai66qz9 実を言うと、感動したのは、夫婦の間の愛の方ではなくて、この夫婦それぞれの仕事に対するひたむきさの方である。
 夫は鉄道の運転士、妻は看護師、どちらも真面目で立派な職業人である。その真剣な態度は、本人たちにも達成感があるだろうし、見ている方にも感動を与える。
 仕事を通して、人とつながり、人への思いやりが実行される。これができる二人なのだから、最後に元の鞘に戻ることができるのも肯ける。
 静かでゆったりとしたストーリーの語り口も好感が持てる。三浦友和はもちろんいいし、余貴美子も合っている。
 富山の自然も素晴らしい。

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2011/12/10

頚椎ヘルニア

Imagesca9u1rwo MRI検査の結果、「頚椎ヘルニア」と診断された。
 正式名は「頚椎椎間板ヘルニア」と言うそうだ。私の場合は、首にある7個の頚椎の5番目と6番目の間の椎間板に変性があり、髄核が飛び出し、神経系を圧迫しているようだ。だから、左の手足に痺れが生じている。
 MRI画像で見ると、変形の具合が分かる。原因は加齢のせいか。
 「対処法は現時点の状況では特にない」と医師に言われて、ショックである。
 ストレッチ体操などは、変形を直すというような根本的な解決にはならないそうだ。痺れを緩和すると言われるビタミン剤も、あくまで緩和剤でしかない。もちろん、ひどくなれば外科手術であるが、まだ時期尚早といったところである。
 「しばらく様子を見る」という、患者としては中途半端な、嫌な状況である。痺れは相変わらず続いているのだから。
 まぁ、受け入れて生活していくしかないでしょう。

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2011/12/09

MRI診断

Imagescag1l869 身体の左の方の手と足が痺れる。
 十数年前からあったのだが、ここ数ヶ月ひどくなったので、整形外科に行ってみた。
 そして、MRI診断を受けることになった。
 腰のところと首のところ、1日20分くらいずつ、今週の月曜日と火曜日に連続して取った。2日続けては珍しいのではないか。スタッフ(技師)の人にも2日目は馴染んだ。
 MRIは、あのガーガーと音がうるさいものである。磁気を共鳴させて、身体の断層を撮影していく。すごい技術だなぁ、と感心する。
 20分間寝ているだけでいいのだから、負担のかからない検査である。2日とも、昼食後の検査だったので、眠たくはなった。
 2回で1万円だから、それなりの経費はかかるが、機器が高そうだから肯けるところもある。

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2011/12/08

本当にわかる社会学 ⑤

Imagescakfdp39 社会学は社会を知る上での有力な道具だが、道具に頼り過ぎるとかえって社会が見えにくくなる。
 素直に社会を見ることも大切な気がする。
 第10章 理論とモデル ②
*意図や目標が含まれる振る舞いを「行為」と呼び、それらが含まれない振る舞いを「行動」と呼ぶ。「社会的行為」とは他者とのかかわりでなされる行為である。
*タルコット・パーソンズ(写真)の「AGIL図式」。社会システムは4つのサブシステムから成り、それぞれが社会システムを維持するために必須の機能を有している。Aは、社会システムの外部環境への「適応」である。つまり「経済」である。Gは、「目標充足」である。つまり「政治」である。Iは、「統合」である。つまり「社会的制御」である。Lは、「潜在的パターンの維持」である。つまり「文化・価値」である。
*政治、法、宗教、教育、科学等々の各機能システムは、それぞれ自らの論理に従って作動しつつ、それぞれ特殊な機能を果たしている。(自己準拠的システム)
*社会学的啓蒙とは、「もし○○ならば、△△である」というふうに、条件を付けたうえで真理を語ろうとする啓蒙のプログラムである。
*人々は貨幣や権力の調整能力(システム統合)に依存するようになる。システムによる生活世界の植民地化とは、こうした事態を指している。

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2011/12/07

本当にわかる社会学 ④

Imagesca7kd49u 第8章 グローバリゼーションと国家
*世界システム論は、「中核」でも「周辺」でもない不安定な状況にある国や地域を「半周辺」として加えることで、「中核」「半周辺」「周辺」関係が時代とともに変化するダイナミズムを分析する巨視的な歴史理論となっている。
*戦争のように暴力を振るう主体や、その目的を指し示すことができるような場合を、「行為的(直接的)暴力」と呼び、一見するだけでは暴力の主体や目的を特定し難い場合を、「構造的(間接的)暴力」と呼ぶ。例えば、飢餓問題は、構造的暴力である。
*アントニオ・ネグリ(写真)とマイケル・ハートは、国連、世界銀行、多国籍企業といったものが普遍的な法を備えていると主張し、こうした法が貫徹する地域を「帝国」と呼ぶ。
*「帝国」の中に生きる人々は、さまざまなバックグラウンドを持っており、そのような雑多な民衆を「マルチチュード」と呼ぶ。マルチチュードは中心的な指導者を持たず、常に多様な意見を持っている。
*21世紀の「帝国」は、普遍的な法を強いると同時に、期せずしてその抵抗の契機も内包している。
 第9章 理論とモデル①
*社会から与えられた役割を状況に応じて演じることを「役割演技」と呼ぶ。一方、役割から敢えて距離をとり、そこに役割から離れた別の自分を示そうとすることを「役割距離」と呼ぶ。
*「現実」とは、社会的な相互作用を通じた現実認識の「制度化」と「慣習化」の結果であると考える立場を、「社会構築主義」と呼ぶ。
*日常生活に満ちた暗黙のルールを研究することを「エスノメソドロジー」と呼ぶ。

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2011/12/06

本当に分かる社会学 ③

Imagescavcp1un 第6章 宗教と文化
*聖なるものとは、神聖なもの、崇高なもの、汚れなきものだけを指すのではない。むしろ、不浄なもの、混沌としたものをも含みこんだ「非日常」である。
第7章 歴史と近代
*日本は、いわば民主主義的な成熟を待たずして、自ら経済的な近代化を成し遂げなくてはならなかった歴史的経緯がある。
*マンハイムが提唱した「相関主義」は、あらゆる思想が特定の歴史的・社会的条件に根ざしたものであるということを、むしろ積極的に評価する。
*近代とは、「伝統」が大量に生産され、それらが民族や国民としての団結力を強めるイデオロギーとして使用された時代である。
*アドルノ(写真)は、「理性は野蛮である」と言う。人間の理性は、自己保存のために働く「道具的理性」にほかならない。他を批判することで自らを正当化する専制的な性格を有している。
*現代は「再魔術化」されている。現代の消費過程が商品の実質ではなくて、むしろその演出効果に支えられている、といった現象がその象徴である。
*現代社会は、リキッドモダニティ(液体的近代)である。自由や解放、多様な選択肢があるが、不安定性や不確実性ももたらしている。こうした状況下では、かつてとは異なり、あらゆる選択についての責任はすべて、個人が負わなければならなくなっている。
*人々の振る舞いの持つ反省的・再帰的な性質(再帰性)こそが、近代社会の特性(モダニティ)を規定している。

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2011/12/05

本当に分かる社会学 ②

Images26 第3章 労働と消費
*パート、アルバイト、派遣社員など、縁の下に押し込められた不安定な立場の労働者を「シャドウ・ワーカーズ」と呼び、彼らが従事する仕事を「シャドウ・ワーク」と言う。
*「心からの笑顔」「元気な声」「明るい表情」、こういった感情をコントロールする必要のある労働を、「感情労働」と呼ぶ。
*ミシェル・アグリエッタ(写真)が提唱するレギュラシオン理論は、安定的な成長をもたらす企業の生産活動や人々の消費に関わる社会的な諸関係(蓄積体制)だけではなく、その生産と消費を支える諸々の政治・社会的な諸制度(調整様式)の分析にも重点を置いている。さらに、学校やマスメディア、あるいは価値体系なども含めて、幅広く捉えている。 
第4章 都市と犯罪
*資本としての人間関係を「ソーシャル・キャピタル」と呼ぶ。
第5章 政治と権力
*フロムは、むしろ自由であることそれ自体が、権威に盲目的に服従するパーソナリティ(権威主義的パーソナリティ)を生み出す原因だと主張した。
*フーコーは、権力それ自体を悪とは見ていない。主人と奴隷のように「命令する・命令される」といった服従関係が固定してしまった状態を「支配」と呼び、この支配関係が問題であり、解体していくことが求められている。
*フーコーは、人間(主体)や物事を形成する力として、そして社会のどこにでも存在するものとして、権力の新たなイメージを提案したのであり、同時に私たち一人ひとりの外側ではなく内側に浸透した権力に目を向けるように促した。
*旧体制時代の王がその臣民に行使したのが「死を与える権力」であったのに対して、19世紀中頃から現われた新たな権力は、国民に「生を与える権力」、すなわち「生ー権力」である。
*サイバー空間で何をできるようにし、何をできなくするかは技術的にはどのようにも設計可能である。こうした技術的な設計のことを「アーキテクチャ」と呼ぶ。

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2011/12/04

本当にわかる社会学 ①

Images25 「私」だけを孤立無縁に考えていても、「私」のことは分からない。人はどこまでいっても社会的動物だからである。
 社会学が元気なところがある。自然科学ほどには厳密に記述できないにしても、哲学のように抽象的過ぎることがないから、ということもあるらしい。
 今や、私と社会の関係を考える上で、社会学が有効な分野であることは間違いがない。
 「フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる 社会学」(現代位相研究所編 日本実業出版社)は、現在の社会学を概観できる。(どうしても羅列的な感じになってしまうのはやむを得ない)。
 10のテーマに分かれ、1つのテーマに10項目ずつであるから、全部で100項目が説明されている。
第1章 個人と集団
*「分離による結合」~大都市で出会うすべてと濃密な結合を保とうとすることは苦痛の末の関係破綻をもたらすが、皆が一定の無関心(分離)を維持する限りで、むしろ他人との結合が可能となる。
*「二人と三人とは大違い」~夫婦だけの関係から、子どもが生まれて三者関係になるのは大きな変化である。ここに社会的関係が生じることになる。
第2章 家族と教育
*「ライフコース」~人生を単に生物学的に捉えるのではなくて、社会的・歴史的影響と結びつけて考える。個人が年齢別の役割や出来事を経ながら辿っていく人生の経路である。
*「一般化された他者」~「世間」とか「世の中」とか「みんな」と言っているものである。曖昧なものながら、心の中に根付いており、私の考えや行動を左右する。

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